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音無とは?/ ディック

[ 447] 音無川
[引用サイト]  http://kkubota.cool.ne.jp/otonashigawa.htm

王子権現の麓を流る。故に紀伊国音無河を模(うつ)してかくは名づくるぞと。本名を石神井川という。武州(武蔵国)石神井村三宝寺の池より発するところなり。下流は荒川に入る。世俗滝野河というは誤なり。滝野河村と号して河の流れにはあらず。
音無川沿いに江戸時代名所として紹介されたところがあり、現在もそれを史跡として残そうとしている。ただ、当時の姿はどれも無く、別な形で、「知って欲しい」と伝えている。
音無川は音無橋より上流はコンクリートの河道に、下流は暗渠として整備した。その際、旧堰たいに近い旧河道の一部を公園化し「音無親水公園」とし、水車を置き水辺で子供達が遊べるようにした。
ここは歴史的な何かを残しているわけではないが、王子七滝のうちの「権現の滝」を模した滝が作られている。
金剛寺の東2丁あまりにあり、この境(ち)後は石神井川に臨めり。寺は正受院と号(なづ)く。伝えに云う、弘治年中和州(和泉国)龍門の奥に学仙坊といへる僧住みて、不動尊の方を修する事年あり。或時霊夢を得て東国に来り、この所に滝のあるを観てこれを幸いとし、その傍に庵を結びて不動の法を修せり。
しかるに、その年の秋洪水にてこの河おびただしく水かさまさりしに、水中に光あり。水落つるの後かの光のさしたるあたりを求むるに、不動の霊像を得たり。ふしぎに感得せしをよろこび、すなはちここに安置し奉るとぞ。
現在不動の瀧は無い。滝不動を祀る正受院が残るが、瀧の名残は北区教育委員会が作成した「跡」の説明板だけである。
音無川の両側は市街地でコンクリート地帯である。川は川床、護岸共に、やはりコンクリートである。この川の整備に際し川を直線化したため曲がりくねった旧河道が所々に残った。その河道を自然とともに公園として残したことは史跡を残すに等しいことである。
王子権現の西の方3,4丁ばかりにあり。本尊は弘法大師の作にしてすなわち大師の勧請なり。この地は石神井河の流に臨み自然の山水あり。両岸高く桜、楓の二樹枝を交え春秋ともにながめあるの一勝地なり。源平盛衰気に治承4年10月頼朝卿墨田河をうち渡り武蔵国豊島の上滝野河松橋という処に陣をとるとあるはこの地のことなり。頼朝奉納の太刀一振り当社宝物たり。
現在松橋弁天窟、弁財天像、弁天の滝、全て残っていない。滝の上、弁天靴の上と思われるところにはマンションが建てられている。残っているのはやや下流の旧河道で、音無もみじ緑地とされた場所である。それでも、江戸の名残を少し走ることが出来る。
�\仗整羸遽茲い砲蓮峺�現の滝」がある。現在も神社南側の崖にある石段の上り口の左側あたりにその滝は落ちていたという。「大正末頃まで行衣をきた修行者が夜、滝に打たれていた。滝は5メートルぐらいの高さから消防ホースぐらいの太さで流れ落ちていたという。
��「不動の滝」(上掲)この滝は、正受院の西側、現在の滝野川中学校との境を流れた水が石神井川に落ちていたものを言う。滝は戦後もわずかにあったが、昭和30年より前になくなっていたらしい。この滝のおかげで、正受院を「滝不動」と呼ぶくらいで、案内書や地誌などには広く紹介されている有名な滝である。
�す藩媚�こと金剛寺の少し上流には、「江戸名所百景」の王子滝野川に描かれている「弁天の滝」(上掲)がある。江戸砂子名跡誌などにもこの滝のことが書かれているが、ふれていないものが多く、おそらくかなり細い流が落ちている程度で、滝と呼ぶのがためらわれたからかも知れない。現在では弁天様の祠さえその場所がわからなくなっていしまってるので、滝の落ちていたところも不明である。
�グ貳崙遏�王子神社に近いところでは、王子稲荷の境内に「稲荷の滝」がある。この滝は、今も残っている石段の南側にあった水垢離場に落ちていた。従って行者が水を浴びるために利用していたものである。
�Δ修遼未砲蓮�現在では北区立の公園となっている「名主の滝」がある。王子村の名主畑野孫八が自分の屋敷内に作った人工の滝であるといわれている。この滝はもともとは細い伏流水が落ちていたのを利用して作った可能性があると考えられる。
��名主の滝公園のすぐ北、岸2-2-3あたりの崖から「大工の滝」と呼ばれる滝が落ちていた、名称の由来である大工とは、現在も岸町に住む野本家が、昔は大工職であり、この家の庭に滝が落ちていたからである。もっとも、現在住んでいるところではなく、今の家の西を通る道を隔ててちょうど西側、もっとずっと崖よりに家屋敷があったという。
��さらに北、芝坂の南に「見晴の滝」があった。地番でいうと岸2-6-14あたりで現在の宇田川整形外科の南側になる。滝の水量はかなりあったらしく、滝壷もそれにつれて大きく深かった。この滝は明治後期に、湯島に住んでいた豪商小栗兆兵衛が別荘とし、この別荘を「長尾園と呼び、芝坂の上、南側の台地のところに見晴台があったというので、滝の名前はこれから取ったものと思われる。
江戸時代、滝についての記述のある書物では、古くは「江戸惣鹿子名所大全」ほか多くあるが、これらの書物に「王子七滝」なる表現はない。時代が変わって明治になっても、明治32年に出た「東京風俗誌」まで「七滝」という表現は出てこない。そして明治43年刊の「東京名所図会」に初めて「王子の七滝」という表現が見られ、「名主」「稲荷」「弁天」「不動」「権現」「見晴」「大工」の七つの滝がそれであるとしている。それ以降の出版物には5滝、または6滝の紹介にとどまり「王子七滝の紹介はどの書物にもない。従って、第二次大戦以後出版された北区誌や案内記に出てくる「王子七滝」なる表現は、「東京名所図会」からの引用であると断定してよいであろうし、同時にそのようなネーミングは、書物の内容をアピールするための手段であったともいえるであろう。
たとへば「名主の滝」他の説明で「王子七滝の一」と記入されているものは多い。しかし、七滝を具体的に説明しているものは見つからない。そこで、北区郷土資料館の調査報告を転載した。

 

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