アイフルのサイトです。
沖縄 融資 高水準 格付 直視 申込 極東 CORPORATION 前日 5月 利息 みなす ひどい 極東 黒字 アフィリエイト 充実 月次 手続 奈良 放送 urchinTracker 施行 動画 はじめて 株式会社 名作 お気に入り 地元 ところ

過ぎとは?/ アイフル

[ 538] 「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か - 過ぎ去ろうとしない過去
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1

今は道徳の時間です。あなたは小学校の教師です。道徳の時間はテレビ見せてればいいだけですからラクなものです。今日のテーマは「かわいそうなぞう」。舞台は戦中の日本。空襲が激しくなった大都市で、参謀本部は動物園の動物達を殺すことを決断するのです。当然飼育員は反対します。しかし軍は「オリが壊れて猛獣が暴れてもいいのか!」といいます。それ以前に軍に逆らえるはずがありません。泣く泣く飼育員は動物達を殺すことを決断します。ところが、ぞうのハナコだけは毒の入ったエサを食べません。飼育員は、エサを与えないで餓死させるようにしました。ハナコは、弱った体で芸を見せます。芸を見せればエサがもらえると思っているのです。感動の名場面!女の子の一部は泣いています。後ろでハナクソほじっている奴は無視です。モンハンやっている奴を発見したら、取り上げるかもしくはまざりましょう。さて、そのようなハナコの努力も空しく、ある日飼育員がオリを覗いたら、ハナコは死んでいたのでした。
物語は、現在の楽しげな動物園の様子を移してエンディング。あなたはテレビのスイッチを消します。そのとき、いちばん後ろで拍手が起こります。そうです、あれは我らが経営学者様です。「すばらしい!参謀本部も飼育員もトリアージを理解している!かわいそうと言うだけでは何も解決しない!」
さてあなたはその後、彼を教壇まで招いて、うやうやしくトリアージなるものについての講義をお願いするべきでしょうか。おそらくあなたがするべき最善の行動は、ぽかんとしている子供たちを横目に、丁重に経営学者様を教室から追い出すことでしょう。なにやらホンネだかネンネだかおっしゃっているようですが、我々にはあまり関係が無いことなので無視してしまって結構です。
さて、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。はっきり言って、これ自体では何も言っていないのと同じです。問題は「適切な配分」とは何かです。
資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる
経営学者様はこれが肝心だといいます。例として彼は四川大地震をあげました。ぼくもひとつ適切な例を知っています。ホロコーストです。
資源の有限性(アーリア民族の生存圏)がその合目的的(アーリア民族の生存)な最適配分(アーリア民族への配分、障害者やユダヤ人の切り捨て=虐殺)を促し、戦略性(ガス室)やリーダーシップ(総統の独裁)や組織内の規範意識(ハイル・ヒトラー)も意思決定(最終的解決)も価値判断(アーリア民族至上主義)もそこから始まる
これこそ経営学的には素晴らしい組織です。ユダヤ人がかわいそう?そんなこと言ってたら(最終的)解決しませんよ!偉大なるアーリア民族が貧窮してもいいんですか?というわけで、経営学の理想はナチス・ドイツだったのでした。
トリアージという発想がもともと野戦病院発、いかに効率的に人を前線に再投入するか、つまりいかに効率的に人を殺していくか、という考えから出てきたものです。われわれはそれがいかに人を助けるかという救急救命の思想へと変容していったかという、歴史社会学的な観点を持つべきです。この点で今現在、四川省で、あるいはかつて福知山線の事故で救急救命にあたった医療関係者にたいしては、当然敬意が払われるべきです。しかし、われわれは同時に、このトリアージという概念が戦争における技術的価値観から生じたものであり、トリアージはけしてその矛盾から逃れることは出来ないということは忘れてはなりません。なぜならば、トリアージがいったん、たとえば我らが経営学者様の手にかかって、救急救命の手を離れ一般的に通用する理論としてみなされたとき、上のような全体主義思想が復活するのです。
「かわいそう」の一言は、その全体主義にたいする、プリミティブな異議申し立てに他なりません。いわば、「王様は裸だ」と叫ぶ無邪気な子供のようです。たくさんの兵隊を連れて行進する王様にたいして、片やもう一方の経営学者様は彼女の単位を左右します。童話の王様は恥ずかしくなって逃げ出しますが、現代の王様は一味違います。「バカだなあ。王様が裸なんて当たり前じゃないか」と自らの裸を誇示するのです。
さて、「かわいそうなぞう」は何故「かわいそう」なのでしょうか。ぞうのハナコは、人間の安全を取るか、動物の命を取るか、という「苦渋の」合理的決断に殉じたのではありません。戦争、日本軍、あるいは「動物園」という形態……さまざまな人間社会の欺瞞によって殺されたのです。つまり、ハナコは合理性という王冠を被った裸の王様に殺されたのです。
それでも、このような欺瞞こそが人間社会なのであって批判は青臭いというなら、それはそれで構いません。ただしそのとき、我々はアウシュビッツを批判する視座を失うわけですが。
算数の時間だったんだけど、例題があんまり道徳的じゃなかったんで保護者に怒られた的な?全体主義と普通の社会は滑らかに繋がってるんじゃないかな。普通の社会がいつの間にかアウシュビッツになりかねない、ということをして、「アウシュビッツを批判できない」ということは無いような気がするけど。俺、関係ない話してる?
「全体主義と普通の社会は滑らかに繋がってる」からこそ、われわれが普通の社会を批判する視座を失った場合、それとは切り離されたアウシュビッツ批判が存在すると思うことは幻想になるんじゃないの。
こんばんは。ブクマで返答して頂いたので。門外漢なんで通俗的理解しかしてないんだけど、ユダヤ人虐殺ってナチの自己目的じゃなかったの?つまり、いつ頃出てきたかとか、党のどの辺りが主体になったかとかいうことではなくて、その作戦が自己完結していて、それよりも上位の「合理的」目的を持たなかった、という風に理解しているのだけど、間違い?(エントリと関係ない話で申し訳ないのですが。)って、書いてから気づいたけど、>資源の有限性(アーリア民族の生存圏)がその合目的的(アーリア民族の生存)な最適配分(アーリア民族への配分、障害者やユダヤ人の切り捨て=虐殺)を促し、戦略性(ガス室)やリーダーシップ(総統の独裁)や組織内の規範意識(ハイル・ヒトラー)も意思決定(最終的解決)も価値判断(アーリア民族至上主義)もそこから始まると、いう話なら例としては適切なのかな。トリアージとか経営上の合理性とかいう話なら、農業集団化とか強制徴発の方が分かりやすい気もしたのですが。目的それ自体の妥当性を置くとしても(しかし、如何なる目的意思においてなされるのかが明言されない「合理的判断」なんて代物は、果たして成立するのでしょうか)、その手段として合理的かつ妥当なものであったかどうかという問いも可能なわけで、「適切な分配」なんて抽象的なこと言われても「で?(笑)」という気も。「かわいそう」は十分、合理的判断です。
まあ(文型)院生と大学教授のどちらが忙しいかといえばその辺りは明らか過ぎるので、そんくらい分かってるだろ。
もう一つここでhokusyuさんがアウシュビッツを例えに出したのはhokusyuさんがドイツ史の専攻だからで、ソ連でも無論かまわないし、日本なら南京事件とか占領下ベトナムの大飢饉とか、他の国でも例はいくつもあると思います。基本的な論点は「例外状態」の想定をうかつに使うのは危険だし愚かだということですから。
『正論」ですねでも、現実世界ではリソースに限りがあります。医療の目的が「全ての人々を救う事」にあるとしても、それが適わない場合には次善の策として「出来るだけ多くの人を救う事」を目指すべきでしょう。為政者が「トリアージで充分だ」と考えてしまう事は問題ですが、現場担当としての「最善(もしくは次善)」がトリアージなのではありませんか。トリアージを非難出来るのは「自分なら全ての人を救える!」と言える人だけだと思います。> トリアージという発想がもともと野戦病院発、いかに効率的に人を前線に再投入するか発祥が何であるかと言う点を問題とするのは、出自を非難する事と同じで『偏見』です。> いやだって、どう見ても上のって全体主義理論じゃん!資源が無限に使えるなら経営などする必要はありません。資本家になれば良いのです。経営者と言うのは例え大企業の社長であっても「現場担当」です。サヨクの人にはそれが分からんのです。経営学は帝王学とは違います。 > 「かわいそう」の一言は、その全体主義にたいする、プリミティブな異議申し立てに他なりません。> いわば、「王様は裸だ」と叫ぶ無邪気な子供のようです。大学生が『無邪気な子供』で良いのか、との問題提起と理解したのですが。
>「かわいそう」の一言は、その全体主義にたいする、プリミティブな異議申し立て 「かわいそう」といって「無限のリソース」になるのだったら、異議申し立てになるでしょうが、そんなわけありません。 現実はなにも変わらないのになにが異議申し立てなのでしょうか?なにが変わるというのでしょうか? 限られたリソースの配分が恣意的でなかった試しが有史以来あったでしょうか? 「かわいそう」といって人に資源を配っても、また新たな「かわいそう」な人をつくるだけです。「かわいそうな象」をつくらなければ「かわいそうな人間」ができるだけです。 小麦や牛や米に生命はないとでもでしょうか?他の生命奪って生き延びることには例外はありません。 どこかで恣意的な線引きがあるのです。 「豊かな人間の憐れみ」か「経営学的観点」か「医学的知識の蓄積」かの違いであって恣意的であるのには変わりないのです。 立場が違う利害が違う人々全てに納得できる恣意なんてあるわけありません。>、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。はっきり言って、これ自体では何も言っていないのと同じです。 と、おっしゃるのなら、あなたの方こそなにも言っていないのと同じではありませんか?
>madashanさん>NakanishiBさんNakanishiBさんが紹介してくれたように(ありがとうございます)ホロコーストは「合理的」に行われたというのが今は一般的ですね。事実経緯を言うなら、絶滅収容所が企画されるのは独ソ戦以後であって、それまではマダガスカル計画とかいろいろあったのです。 >通りすがりさん>身が持たないねそこでトリアージです。 >高卒そこでトリアージです。 >toorisugariところで、ぼくは一行も現場でやってる人を批判してないはずなのですが、どこでそう読み取ったのでしょうか。発祥はうんぬんしないのに応用(経営学への適用)は平気でしていいのだという発想がよくわかりません。そもそも救急救命への適用自体、応用からなされたものです。となれば、単により多くの命を救っているというトリアージの「表面的な」正義だけでなく、合目的的に行われる殺戮、つまり戦争の技術としてのトリアージ(選別)の流れも当然あるはずで、それを恣意的に無視してよいのだという根拠はありません。
一部敬称をつけるのを忘れていました。高卒さん、toorisugariさん、ごめんなさい。 >taityou@8eggsなるほど、リソース配分は有史以来恣意的なものでした。そして「かわいそう」の声ももちろん恣意なのです。そして、あなたの言っていることは、王様は裸ですよと言っているだけで、実は何も語っていません。ぼくが批判したいのはそもそも、王様は裸ですよというときに、頭にはぴかぴかした合理性の王冠をかぶっている人のことです。つまり、人間の選択は恣意であるとすれば、それはどこまでいっても恣意(四川地震でも)なことにはかわりません。にもかかわらず、トリアージには客観的な基準があると思われています。呼吸は正常か、意識はあるか、などの情報において、機械的に選別をするだけだ、というわけです。しかし、実はそれも恣意なのであって、そこにヴォルテールがライプニッツにたいして激怒した理由があります。ところで、合理性の王冠は「例外状態」においてかぶられます。ところが、その判断も「恣意」なのです。toorisugariさんのように、現実の経済社会はすべて「例外状態」の中にあるのだという人もいます。そして、「永遠の例外状態」のなかで行われたのがまさにホロコーストでした。
かわいそうなぞうの「かわいそう」ってのは、「無力っぽさ」に対しての、母性的な庇護心をかきたてられる感情誘発の状態なんじゃないでしょうか。「賢いアウシュビッツの資源独占」に対するアンチテーゼ(ブレーキ)は、弱者間の共済。そのアルゴリズムは遺伝子レベルで既に用意されているので、あとはバランス調整して適切に起動させるだけでよい、って所ですかね。ただ、あくまで「ブレーキ」なので踏みっぱなしじゃあ車が動かないし。Good/Evilのニ値原理論ではなく、その場その場のダイナミックなバランスで …ってなんかスピノザっぽいですけど。
福祉予算はリソースが増えたんじゃなくて分配が増えたんだろ。つか、大学って小学校なんだ?算数の時間が道徳の時間にすりかわってるし。例えるなら、算数の時間に、例題に出てくる鶴や亀をカワイソウと言い出すアホの子、でしょう。
toorisugariさんではありませんが>ところで、ぼくは一行も現場でやってる人を批判してないはずなのですが、どこでそう読み取ったのでしょうか。あなたの言葉で返しましょう。「あなたの言っていることは、王様は裸ですよと言っているだけで、実は何も語っていません」何も語っていないから人はそこにさまざまなものを見て誤爆されるんです。
>つか、大学って小学校なんだ?それこそ小学校じゃなくて大学なんだからさ、教師は自らの依って立つディシプリンの根底にあるロジックに対する疑義をきちんと汲みとるべきでないの?
>santoさんうーん、それはあまりにも本質主義すぎるのでは。 >ますださんナチス・ドイツは算数の問題に反ユダヤ主義を混ぜました。「これは算数ですから」で道徳的な追求を免れ得ると考えるのは大きな誤りです。 あと、福祉予算を増やせというと財源が無いという人があります。本当は財源なんて金持ちからふんだくれば全然あるわけです。 >通りすがらない読解は自由だといっても、自分の誤読をわたくし様のせいにされてもなあ。何も言っていないとはどういうことでしょうか。わりとすっきり主張をしていると思いますが。
>NakanishiBさんURLのご教示ありがとうございました。やっぱり、ちゃんと調べないと何事もダメですね。基本になっている知識が歴史学経由であるより遥かに思想書経由なので、その点、歴史学の成果よりも遅いし、ゆがんでいます。>芝健介、『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』、中公新書あたりから読み始めてみようかしら。>基本的な論点は「例外状態」の想定をうかつに使うのは危険だし愚かだということですから。これは承知しておりますし、基本的に同意いたします。でも、ここにこそ「本性」があるのではないでしょうか。資本主義の過剰を生きることと極限状態での生に関して予め指標を導入することがアナロジーになりうる、と考える思考の形式に意味があるとすれば。>hokusyuさん以前、id名を間違えて書いてました。ごめんなさい。僕はユダヤ人大量虐殺がナチズムの「非合理性」だったとは思っていません。官僚的マステロルは極めて「合理的」なものでしかあり得ないと考えるからです。ただ、ナチズムとボルシェヴィズムはどこかで本質的に違っていて、それはとりあえず目的と手段の関係なのかなあ、とか思ってました。ボルシェヴィズムにとっては、階級闘争ならびに永続的な革命テロルがその手段ですが(白軍、クラーク、ノメンクラトゥーラ、人民の敵――「客観的」裏切り者、といった感じに再生産されていくものかな、と)、ナチズムにとってはユダヤ人の殲滅は目的に属するのかと考えておりました(もちろん、手段はどうしても目的に影響を与えないではいられませんでしょうし、目的として据えられたものも、その実際の遂行としては手段に転化せざるをえない、ということについては承知しておりますが、一応の便宜的分類として)。いずれにせよ、学知としての歴史学はまるで門外漢なので(系統だった知識と基本的なディシプリンについてまるで無知なのです)、いろいろと間違いが多いと思います。しかし、コメ欄が実り豊かで羨ましいナア…。
私は誤読してるなんてどこにも書いていませんが?> わりとすっきり主張をしていると思いますが。そう思っているのならそれはあなたの思い込みである可能性が高いです。まともな主張の体をなしていません。(あるいはあなたがすっきりしただけかもしれません)まず文章からして、何に対して何を主張しているかが明示されていません。それが新しく主張していることなのか既存の主張を確認しているだけなのか。また、対案に対してあなたの主張は何を根拠にどう優れているというのか(全体主義のレッテルを相手に貼れば優れていると思っているということはないですよね?)別にそれらを明示しなくても主張は主張といえなくはないですが、それらは誤爆を許し、また、あなたが誰かに言ってるように「何も言っていない」といえる類のものです。「何か言わなきゃいけない理由」もないですが。まずは他の人が本当は何を言っているのか、見極めるところからはじめるのをオススメします。偉そうに失礼しました。
>通りすがらないさんいや誤爆でしたら超歓迎なのですが。 >まずは他の人が本当は何を言っているのか、見極めるところからはじめるのをオススメします。「本当は何を言っているのか」「本当は何を言っているのか」「本当は何を言っているのか」「本当」って何でしょうね。難しいです。
>そう思っているのならそれはあなたの思い込みである可能性が高いです。まともな主張の体をなしていません。そう思ってるのならそれはあなたの思い込みである可能性が高いです。
>あと、福祉予算を増やせというと財源が無いという人があります。本当は財源なんて金持ちからふんだくれば全然あるわけです。これは本当にそう思ってらっしゃるんでしょうか?援護射撃中のApemanさんも同意見なんでしょうか?流石にびっくりしたんで質問させていただきました。
ん? 日本の金持ちというのは逆さにして振っても鼻血もでないような人々でしたか?びっくりしたんで逆に質問させていただきました。
お初ですにゃ。ベランダのプランターにバジルの種を蒔いたところ、思ったより発芽率がたかく、みっしりと芽がでてきましたにゃ。ここはトリアージ(間引き)をしにゃーといけにゃーですね。合理性とはそういうものですにゃ。災害時において、医学的見地にのみ基づいた「間引き」について、僕自身はそれを受け入れざるをえにゃーことはアタマでは納得していますにゃ。しかし、自分が間引かれることを納得できにゃーというのもわかる。それが「かわいそう」なのではにゃーかとも思ったりしましたにゃ。
>それこそ(語源的意味での)トリアージですよ。にウケた(笑)。金持ちには緑タグでも貼っとけばいいんです。
「金持ちからふんだくるのは難しいんだぜ」とか言う人こそが今回「トリアージ」をサクッと認めさせたがっているのは、いろいろ示唆的ですね。「女子学生」の「かわいそう」は無視できるけど金持ちの「そんなにふんだくられたらたまらん」は無視できない、ってわけですから。ところで mojimoji さん、私は「金持ちからふんだくらないことを選択する」ことを「財源が無い」と言い換えることをインチキだとは思いますが、それを「疑似科学」と呼ぶことには賛成しません。「財源は無い」は社会科学として受けいれられており事実社会科学の一側面であるのでしょう。ここではむしろ「科学批判」をすべきなのです。
>Apemanさんその感じは分かりますし、以前はそう考えてましたが、今は違います。>科学批判をすべきというのも、僕なりに、経済学者の言説の変だなと思うことを考えたり実際に質問してみたりする中で、返答が結構酷いなという印象を持つようになったんですよ。批判されるべきだが経済学的に真っ当な主張をしている、ではなく、経済学的な分析と個人的な見解をまぜこぜに主張している、というような。
mojimojiさんその点については現在作業中のことがあったりしますので、いずれ決着を付けるということでよろしいでしょうか(もちろん、決着なんてつかないという可能性もふまえてのはなしですが)?
(そちらの業界における)ファシストとその他の人々との違いは、まれなチャンス少しの度胸なのですから、つまりはそういうことです。そろそろ降伏すればいいんじゃないですかねー
お返事ありがとうございます。 ハンドルなんですから、敬称なんてわたしは気にしてませんよ。>、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。はっきり言って、これ自体では何も言っていないのと同じです。 こんなの当たり前だからなにも言っていないのと同じだ。と、いうあなたの批判の仕方が許されるのならば、「王様は王冠をかぶっている」というのも「当たり前のことを言っているだけ」なんですから「なにも言っていないのと同じ」です。 他人に自分が望む恣意を行わせる(自分の言うことを他人に正しいと認めさせるとか、他人リソースを分捕ってくるとかetc)には何らかの力が必要です。例外をわたしは見たことがありません。 歴史的・経験的同意事項であると訴えてみたりだとか、今までの個人間の関係の蓄積とか、暴力とか、論理とか、他人の憐れみにつけ込むとか、伝統的・血統的・身分的様々な種類の権威とか、(市場や法律など)様々なシステムとか、まぁ何らかの力です。>王冠 と、いうのを「何らかの力」と解釈しても、そんなの当たり前・なにを今更な話ですし。 何らかの「恣意の正当性」と解釈しても、そんなの当たり前の話です。>「かわいそう」の一言は、その全体主義にたいする、プリミティブな異議申し立て 教授の頭に王冠をつけようとするのか、女子生徒の頭に王冠をつけようとするのかの違いであって「王様は王冠をかぶっている」ことには違いがないのですから、あなたの方こそなにも言っていないのと同じです。
看護婦はいかにして効率よく兵士の命を救うか、つまりどれだけの戦力を保持出来るかという考えから出てきたものだから矛盾しているんでしょうか?
>apemanさんこちらもその方がよいです。上記コメントは現段階では見通しで、僕としてもまだちゃんと考えたいことがいくつか残っていますから。
>taityou@8eggsさん> 教授の頭に王冠をつけようとするのか、女子生徒の頭に王冠をつけようとするのかの違いであって そんなことは言っていません。読み返してみてください。ちなみに、誰かを従わせるのなんて全部暴力ですが何か?というのは、>「バカだなあ。王様が裸なんて当たり前じゃないか」と自らの裸を誇示するのです。で既に指摘していたりします。 >mira12さん少なくともナイチンゲールの理念はそこには無かった気がしますが、もちろんせっかく救った命がまた前線に投入されることによって奪われる葛藤について、古くから考えられてきたわけです。
つまり、戦争を出自とするものは、どう使われるかではなく存在そのものが否定すべきであると解釈していいでしょうか?銃が悪いのか人が悪いのかで銃が悪いと答えるように。そうなると答えは多数決でしか出ない観念的な好き嫌い問題に成り下がってしまいますが。もうひとつトリアージを経済経営に応用すると全体主義になってホロコーストが起こるという部分には説得力が全くありません。なぜなら、トリアージは1か100かを選ぶ「どちらかを選択しなくてはならない」問題であるというのが前提です。他方、ホロコーストは、それが「必須である」状況はおそらく存在しないし、存在するならはカルネデアスの板の論理で肯定されるでしょう。無論、「カルネデアスの板は間違ってる、二人とも仲良く死ぬべきだ」と言うなら別ですが。id:fuku33がモデルとしての最適の話をしたところに現実的な諸問題を当てはめるからこんなに噛み合わないのでしょうか。
もうひとつ経済でも経営でもモデル化するとき、人は最適に動く、というのが前提です。そこで、「人間はもっと複雑だ」と言ってしまうと話が進まないわけです。例の「かわいそう」と言った学生は人間的かもしれませんが、経営の授業を受ける姿勢ではないだろうというのが僕の感想です。
>つまり、戦争を出自とするものは、どう使われるかではなく存在そのものが否定すべきであると解釈していいでしょうか?どこをどう読んだらこういう解釈が可能になるのか、不思議でなりません。>そうなると答えは多数決でしか出ない観念的な好き嫌い問題に成り下がってしまいますが。これも意味が分からない…>なぜなら、トリアージは1か100かを選ぶ「どちらかを選択しなくてはならない」問題であるというのが前提です。>他方、ホロコーストは、それが「必須である」状況はおそらく存在しないし、存在するならはカルネデアスの板の論理で肯定されるでしょう。これもすごいなぁ…「カルネデアスの板の論理で肯定されるでしょう」って、自説を真っ正面から粉砕してるしwもちろん前半も反論になってませんね。>id:fuku33がモデルとしての最適の話をしたところに現実的な諸問題を当てはめるからこんなに噛み合わないのでしょうか。「現実的な諸問題」をひきあいに出したのは fuku33氏その人なんですが…>経済でも経営でもモデル化するとき、人は最適に動く、というのが前提です。えっ! そんなこと前提しちゃうんですか? だったら経済学も経営学もいらないじゃないですか! ずいぶんと「リソース」が節約できそうですね。
>mira12さんたとえばナイチンゲールなどは、やはり人の命を助けたいということで看護をやったと思うのですが、それが戦争という「人を殺すシステム」の戦略に回収(それこそ元々の意味、戦場での「トリアージ」)されることでの苦悩、というのはたびたび議論されているということです。従って、「戦争に使われたからダメ」というのはまったく読めてないなと思うわけですが、それでも「人じゃなくて銃が悪い」というのは別の意味で興味深いと思います。すなわち、技術による人の支配です。「トリアージ」はその観点でも議論が可能でしょうね。 >「トリアージは1か100かを選ぶ」ホロコーストには「1か100かを選ぶ」選別の連続という性質があります(その最果てが<回教徒>)。トリアージにしても、実際の現場ではその具体的な状況において、選別が連続的に行われるわけです。まさにその「生政治」「生権力」の表出たるトリアージが、経済に応用された場合、全体主義の危惧が起こらない理由はありません。 ところで、コメント欄いっぱいになりそうですが、続きをたてる気はとくにないので、どうしても続けたいなら28日のエントリにでも書いてくださいな。
mira12さんは、戦前の日本において「満蒙は日本の生命線」なんて主張がもてはやされたけど満蒙を失ってみたら別にそれで国が滅びることもなかった、って歴史も学んでみるといいかもしれませんね。
お邪魔いたします。少し気になったので、質問を二つだけ、させてください。まず、hokusyuさんの主張というのは、要約すると、「合目的的に救済することも、合目的的に殺戮する事も、根は同じである。その恣意性に問題がある」……という理解でよろしいでしょうか?あともう一つ、では結局、もしhokusyuさんが災害救助をする立場に立たれた場合、どのように行動されますでしょうか?思うに、トリアージ的な救助の基準に対する問題提起があって、けれど「じゃあどう行動すべきか」がわかりにくく、そこが何かもやもやしているように感じるものですから。その二点だけ、後学のためによろしければお教えいただければ幸いです。以上、失礼しました。

 

[ 539] 請求書は締め切りが過ぎたら支払ってもらえない? | エキサイトニュース
[引用サイト]  http://www.excite.co.jp/News/bit/00091210518661.html

たとえば自営業など、請求書を送ってそれに対して支払いをしてもらう職業の場合、大変重要なことでありながら、意外と頭痛の種になるのが「請求書の発行」だ。「請求書をつくるのも仕事の一つ。期限内に送るのは常識」というのは、もちろん当然。だが、仕事が立て込んでいる時期など、ごくわずかなギャラのために、かなり面倒くさい経費の精算をしなければいけないときなどは、ちょっぴり泣けてくる。私事で恐縮だが、自宅で電話取材をさせられまくったうえ、後日、電話料金明細書の該当箇所1件1件にマーカーでチェックをし、経費を請求しなければいけなかったときは、「いっそ精算しなくても、タダ働きでもいい!!」という気にもなった。また、カメラマンと2人分の取材費(航空券・宿泊代など)15万円程を立て替えさせられ、担当者が経費の精算について何も教えてくれなかったため、半年以上もずっと放置されていたというマヌケで悲しい過去もある。このとき、「決算が過ぎているので、支払いは難しい」などと仰天の対応をされ、なんとか後日支払いはしてもらえたものの、すっかり恐怖が刷り込まれてしまった。状況は異なるものの、今も「○月末までに請求書をお送りください。過ぎてしまうとお支払いできない可能性があります!」などと仕事相手に言われることがよくあるのだが、これって本当に払ってもらえないもの? ある弁護士に聞いてみると……。「実際に仕事をしたわけだから、代金支払いに関しては、請求書の送付期限を過ぎても、法律的には払ってもらえます。ただし、事実上の問題として、相手は企業であるから、会計にまわして、会計が振り込むことになりますよね。会計には当然、会計月度、年度などの締め日があるので、締め日以前に送ることは大原則です。過ぎてしまうと、煩雑になり、支払うのが相当困難になりますから」法律的には「支払ってもらえる」が、事実上の問題は別とのことだった。これは経費精算なども同様だそうで、「たとえば、送付期限をこえて請求すると、円滑な受発注ができなくなり、トラブルのモトにはなりますよね。今後の付き合いを考えると、泣き寝入りすることは多いかと思います」確かに、会計担当者の立場からすると、期限を守ってもらえないと困るのは当然のことだけど……。でも、モメたことで仕事を失うくらいなら、と思う人は多いのかもしれない。ちなみに、アテにならないのは「(次の仕事のとき)色つけときます」という言葉。発注され、途中まで作業をしていて途中でポシャった案件などに関しては、実質タダ働きになるため、たいていこの言葉が使われるけど……。具体性が何もないだけに、十中八九泣き寝入りです。ご注意を。(田幸和歌子)
 エキサイトブログユーザーならブックマークレット機能を利用してこのページにトラックバックできます。

 

戻る

アイフルのサイトです。

アイフルのサイトです。