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終わりとは?/ アイフル

[ 480] 2ちゃんねるの「終わり」とブログの今後 - nikkeibp.jp - from ガ島通信 メディア崩壊の現場を歩く
[引用サイト]  http://weblogs.nikkeibp.jp/gato/2005/06/2channel.html

前回の「ブログの終わりと始まり」に、たくさんのブロガーからトラックバックを頂きました。いろいろな視点があり参考になりました。何度も言いますが、物事は複雑です。この連載もある物事を一面的に切り取っているに過ぎませんが、ブログの双方向性がその一面性をフォローしてくれていると考えています。私の「視界」が狭くても、皆さんの意見を聞きながら考え方を見直し、整理することができるのは大変ありがたいことです。
「終わり」(ここでの「終わり」は前回とは意味が異なっています)と言っても、2ちゃんねるが閉鎖されたわけでも、消え去ったわけでもありません。私はこの「終わり」の意味を、2ちゃんがオルタナティブなマスメディアに成長できなかったと捉えています。
既存マスメディアでは、「怪しげなネットコミュニティの代表格」、「オタクやネット右翼の集う場所」などのレッテルを張られていますが、2ちゃんの魅力は真偽ではなく言葉遊びにあります。真実なのかウソなのか分からない面白そうなネタで言葉遊びをする。矛盾を突っ込んだり、応援したり、批判したりしながら書き込みが展開していくサイバーコミュニケーションです。
このような言論は一見無秩序に見えますが、そうではありません。広告やスパムコメントは、ボランティアの削除人が巡回して消去していますし、スレッドの話題と異なる書き込みやローカルルールを無視すれば2ちゃんの先輩たちによるアドバイスがあったりします。西村氏は「真偽は読者が判断すること」と発言していますし、2ちゃんねらーの「ソースを示せ」にも代表されるように、ある種のリテラシーも存在しています。
一時期猛烈に輝き、存在感を示した2ちゃんですが、なぜ「終わった」のか。なぜマスになり得なかったのかを解明するひとつのキーワードがリアルであると考えています。
ised@glocomでは、『オフ板は2ちゃんねらーが最後に行き着く場所だ』というコメントが紹介されています。このコメントは、「マトリックスオフ(公共の場所で、映画マトリックスに登場するネオをエージェントスミスが追いかけるという趣向)」を主催していたある人の発言です。
これは、2ちゃんがリアルへつながるコミュニケーションを模索していたことを示しています。他にも「うまい棒を持って選挙に行こう」、「湘南ゴミ拾いオフ」など、いろいろな試みが行われ、話題にもなりましたが定着しませんでした。リアルな行動すらネタ化されてしまいました。
これを最終的に決定付けたのが「電車男」です。「真偽不明」のネタだったはずのものが、本となって印刷され書店に積み上げられ、ワイドショーで語られ、人々の間で「確からしい」ものになっていく。次々と電車男関連本が出版され、映画、テレビドラマ化…。2ちゃんが紡ぎだした物語は、既存メディアに取り込まれ、消費されていきました。
ネタ物語のリアル化。この逆説によって、リアルを模索していた人たちは、既存マスメディアの軽薄さと、リアル世界のくだらなさを改めて思い知らされることになりました。「ウソから出たマコト」のような状況を冷ややかに見ていた2ちゃんねらーは、再びサイバーへ「引き篭もって」(決して否定的な意味ではありません。リアルを意識することが絶対善であるとは考えていません。あくまでマスメディアとしてどうなのかという視点ですのでご注意ください)いきます。
現在、2ちゃんは、細分化された各スレッドで「マターリ」とする場となっています。巨大な掲示板にもかかわらず、横のつながりを持たない小さなコミュニティの集合体になってしまい、マスメディアにはなり得ませんでした(リアルへ影響力を持ちすぎた2ちゃんを制御するため、西村氏らが電車男を「わざと消費させ」、リアルへの模索を失敗させたのかもしれない、とうがった見方が頭をよぎりましたが、これこそネタ文化2ちゃんの思うツボなのかもしれません…)。
ちなみに、2ちゃんは依然として大きな存在であるように見えますが、これは常に取り上げるものが一歩時代遅れである既存マスメディアの特性によるもので、消費の最終段階に入っているだけです。現状の「マターリ」が続く限り、2ちゃんがこれ以上社会的存在感を増すことはないでしょう。
では、2ちゃんとブログの違いはどこにあるのでしょう。ブログは「@名無しさん」が大半の2ちゃんに比べて、匿名にせよハンドル名(HN)にせよ、一定期間書き続けることによって管理人や運営主体の同一性が担保される構造となっています。そして、ほとんどのブロガーが、イベントや旅行、買い物など身の回りの出来事や家族や友人との付き合いや悩みなど、リアルに根ざしたエントリーを立てています。
それらは、アクセスも少なく、コメント欄もレスがないか、友人や家族からのものですが、そのようなブログが今後はさらに増えていくでしょう。ブログの普及は「匿名と実名」や「サイバーとリアル」論争をあっさり乗り越えていく可能性があります。「ブログ終焉」論争でも、「リアル」と言う言葉がかなり使われています。私には、この反応こそが、ブログがリアルに根ざしたコミュニティツールへ変貌を遂げようとしていることへの、リアルとサイバーを切り分けたいネットワーカーたちの反発、不安の表れではないかと思えるのです。
新聞社では、事件事故、漁業補償交渉や合併・地方自治などを取材する一方、中高生向け紙面のリニューアルを担当し、「紙」媒体の価値と限界を認識。2004年9月にブログ「ガ島通信」をスタートする。既存メディアの問題点と意識改革、新しいメディアと参加型ジャーナリズムについて議論している。

 

[ 481] [R30]: ブログブームの終わり
[引用サイト]  http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/04/boomofblog_63eb.html

最近、いくつかの経験があって、ぼんやりと感じるようになっていたことがあったのだが、梅田望夫氏のはてなダイアリー「BLOG論2005年バージョン」を読んで、ぼんやりとしていたものがかたちになったような気がした。
2003年12月にはてなダイアリーがβ版サービスを開始して始まった日本のブログ・ブームは、そろそろ「終わった」と断言しても良いんじゃないか。さらなる成長を遂げるためには、どこかで明確なタームの転換が必要になりそうだ。
なぜそんなことを考えたかというと、まずこのブログのアクセスがまったく伸びなくなったということがある。そりゃーおまえがつまんねーことばかり書いてるからだ、とか、ストレートニュースに脊髄反射系が最近減ったからだよね、という原因はちゃんと自覚してるんだが、それにしてもPVの推移が少し重すぎる。
それでAlexaではてなダイアリーとLivedoor BlogのPVとかリーチを調べてみたんだが、どちらも4月に入ってから伸び悩んでいる感じ。はじめは社会人になった新卒学生が就活ブログを止めて抜けたのが原因かなあとか思っていたのだが、4月中旬を過ぎても回復の傾向が見えてこないので、やっぱり世の中全体の傾向なのかなと思った。
あと、ちょっと具体的には言えないんだがある人が言っていた「ブログのアクセスが多いなんていうのは幻想」みたいな話を聞いて、ま、そりゃそうだろなと。とするとこの1年半ばかり、日本のブログ界がリアル世界において生み出した成果とは何だったんだろうか。
思いつくまま挙げてみると、梅田望夫を媒介にして米国のブログ・ムーブメントの思想をネット住民がリアルタイムで受け止め、山本一郎や真鍋かをりという端くれ者を突然メディアの寵児に祭り上げ、磯崎哲也や湯川鶴章という新たな文化・知識人を生み、藤代裕之や伊藤春香というニューウェーブのライター、あるいは現役女子大生タレントを生んだ、そんなところか(以上敬称略)。
それ以外、例えばホリエモン騒動と「ファイナンス」というものに対する世間の異様な関心の高まりなどは、ブログがあってもなくても今の日本でいつか起こるべきものだったような気もするし、ブログをまとめたいくつかの本も、別にブログがなくてもそのうち出てきたもののような気がする。
そしてむしろ、明らかになった問題の方が大きい。それは、梅田氏がまとめているように「確かに知的生産性は一気に向上した、だが時事性の話題に優れた考察を加える専門家のシリアスなブログは、これからまだ増えるのだろうか?」ということなのであり、価値ある情報ほど極度に囲い込んで出さない、日本の知識人の「知」のあり方なのである。
個人的には、米国というのは良くも悪くもこうした「知」の体系の構造変化には後先考えずに突っ込んでいく人たちが(エスタブリッシュメントさえも)多いところで、だからこそブログの情報伝播力を最大限活用しようとするビジネスがいくつも立ち上がってくるし、マスメディアを巻き込んだドラスティックな「ジャーナリズム革命」みたいなものもブログ回りで起こってくる。
でも日本のエスタブリッシュメントやマスメディアというのは、表面的な部分では世相にものすごく左右される割には、「知」の構造変化に対しては慎重だと思う。だからこそ新聞や出版業界も表面上はブログに対して特に目立った動きを見せない。
ある意味でそれは、ブログがブームであることを無意識のうちに折り込んで行動しているようにも見えるし、実は単に保身と既得権益だけがすべて大事という姿勢にも見える。たぶんその両方だ。そして、これから後の展開を予測するのもそれほど難しくない気がする。端的に言えば、徹底して構造変化に抵抗し続けるという、97年以前の銀行業界のような戦略をとり続けるが故に、世間の構造変化の加重が一定値を超えた瞬間、ある日突然バキーンと轟音を立てて業界ごと崩れ落ちることになるのかもしれない。が、実際のところそのへんは僕にも分からない。
僕について言えば、紙メディアからそうでない領域に昨年転職したばかりで気が乗らなかったということもあるし、「R30」という、どう見てもリアル世界ではブランドとして不適切なハンドルでブログのブランディングをしてしまったということもある。いずれにせよ、いくつもあったマスメディアからの執筆のお誘いをすべて断り、第1次ブログブームの間にライターデビューする機会はつかみ損ねた、ということだけは言えるだろうと思う。
別に、ライターデビューするのが目的で始めたブログでもないし、「旬のメディア」という流れで言うと、そろそろブログの次のものが出てきそうな気がするのでそれ自体残念とも何とも思わないのだが、少々残念かなと思うのは、梅田氏と同じように、どうやらこれ以上面白いコンテンツを持った知識人やタレントがブログ界に参入してこなくなりそうな気がするのと、切込隊長のようにネット住民からリアル有名人に「転出」してしまう人が出てきて、ネットの言論空間が寂れていきそうな気配がすることだ。
僕自身は、自分の考えていることを確認したりいろいろな人に投げかけて反応をもらったりしていたいから、今すぐ何かを変えたりこのブログを止めたりするつもりもないのだが、そろそろ打ち上げ花火を止めて、リアルの側のインセンティブの構造といった何かを変えなきゃいけないような気もしている。
いろいろ書きたいことがたくさんあるのだが、5月に入るまでは忙しすぎてまともに思索を巡らせる時間もない。といっても、連休中もやらなければならないこと(主に仕事)がたくさんあるので、休みに入れば少し更新頻度を上げられるかというとそうでもないのだけれど。
これからはブログの世界も踊り場というかバブル崩壊の敗戦処理というか、「巡航速度」のあり場を探す展開になっていくのだろうなと思う。
あ、ちなみにPageViewの極端があがりさがりが方々でいわれているが、これは真剣に極低温などでの相転移現象っぽく私には感じられる。つまり、ブログやネットのつながりが密になればなるほど、アクセスは一箇所に超集中していくということだ。... 続きを読む
なんだか判らないけど、問題というか話題になっている模様。僕の妄想から導き出された答えを先に書いてしまうと、「何を根拠に好きになったか?」ってことの違いによる反応の違いなのかなあ。僕が切込隊長という名前を目にしたのは、梅田さんのCNET連載ブログ。それまでは...... 続きを読む
ブログの拡大ペースが鈍りません。日本語のブログだけで昨年末に200万を超え、今年末には600万に迫る勢いだそうです。
さて、一見順風満帆に映るブログ市場ですが、成長の陰で大きな問題もかかえています。1つは、以前とり上げた、ブログを書いている個人や、その内容により影響を受ける企業の危険性。
R30::マーケティング社会時評というblogのブログブームの終わりというエントリがハブとなってブログブーム終焉論がいくつかのblogでなされている。
このエントリに関しては私も一部同感である。ちなみに以前のエントリでハイプ曲線を利用して簡単にその感覚を説明しているので、私の考える終焉論についてはblogに関する雑感@log for logsを見ていただけるとありがたい。
ブログの終わりの地点には、キーボード入力が出来る人あたりの数字が限界のような気がする。 インターネットと言えばホームページであり、最初にプロバイダに加入するときに、そのプロバイダがおすすめしている、誰でも簡単にホームページが作れます。というふれこみで参加するという感じが多いが、インターネットを買ったが、ホームページはあまりの難しさに放棄したユーザーの数と、インターネットを買った時に、ホームページというふれこみの代わりに、これから簡単で楽しいブログを始めようという言葉で始めた人の数が少なくなったときが... 続きを読む
ブログブームは終わってるらしい。全体で見ればアクセスはまだ伸びてると思う。ただ、ユーザーの拡大で各個人アクセス数はかなり鈍化していると推測。 自分も確かに一時期と比べてブログ熱はだいぶ冷めた。去年、ブログを始めた頃は何もかも新鮮で有名なところにTBを打つだけで興奮した。記事を書くだけでも色々と思考をめぐらせて書いてた。 でも、なんだろう。「毎日更新」を半年やってきたがあまりこれといって変わったことはない。文章を手際よくかけるし、コミュニケーション能力は少し上達した気はするけど革命的なことというよりは... 続きを読む
つまんない、後味の悪いことを書いた後で、他方で昨日、一昨日のエントリーに、いろいろなコメントやトラックバックを頂いたのをみると、やっぱりブログって、いいなぁとも思います。
私はウェブログというツールの利用はまだまだ広がっていくんだろうと思いますが、ウェブログ開設数が読者数の伸び以上に増えていくので、個々のPageViewはそれほど伸びていないのでしょう。... 続きを読む
ブログブームは終わる、もう終わる、もう終わってるぞ、と言う人は「ブログがブームだ」といわれ始めた次の瞬間から存在したと思うが、目立つ場所で言っている人を久しぶりに見た。 ブログブームの終わり(R30::マーケティング社会時評) 何をして「ブーム」と呼ぶのかというのがまず問題かもしれないのだけど、各ブログサービスではブログの開設数、pvともに伸び続けているし、ビジネスブログビジネスブログいう人たちの勢いはこれからもっと激しくなりそうだ。 いくつもあったマスメディアからの執筆のお誘いをすべて断り、第1次... 続きを読む
ページビューが集まる。ひょっとしてオレってすごいんじゃないの?と思う。世間に物申したくなる。アイドル気取りになる。でも、ひとのココロを定常的に維持することはできない。書き込むネタを探すのも大変だ。で、手を抜き始める。飽きられる。飽きられるのはさびしいから、「ブログは終わりだ」と言ってみる。
私は、切込隊長を高く評価している。頭の回転の速さは文章を見ただけで伝わってくるし、なにより独特の文体は魅力的である。事実、このBlogでも何度か彼について言及している。当然、今回の騒動はかなり早い段階からチェックしていた。正直食傷している人も多いだろうが、.... 続きを読む
ブログがブームになっていたわけだけど、みな漫然と思うとおりにそれは衰退しているのではないかという意見。 どんなブームもいつか終わりがくるわけだし、一息ついて落ち着いて日記をトボトボ書くのがいいのかしらと。 大事なのは夢中になるコトであり... 続きを読む
中小企業診断士/ITコーディネータ 春日一秀のブログ: ブログのこと、再考?しようと思いましが、できませんでした。
「週刊誌記者の日記」(というより週刊朝日ブログのほうが通りがいいか)で、この記事を見つけ、思わす首を傾げる。
まあ、希望的観測にケチをつけるのも大人気ないのだけど、ブログってそこまで普及しないと思うんですよね。
つーか、「モノ申す」なんてジジィ臭が強烈な言い方はしたくないな。って言っても、おいらもそんなに若くはないんだけどさ。 で、タイトルの話、出処はおいらも尊敬する梅田さんのこのあたりらしい。で、ここ(R30)とかここ(FPN)とかでそれがオーソライズされた格好になってる。 そりゃあ、IT セレブ(何)の梅田さんがおっしゃる金言であればオーソライズしたい気持ちもわかるんだけどさ。でも、やっぱなんか違う気がするんだよね。...... 続きを読む
[R30]: ブログブームの終わりを読んでピーターの法則を思い出した。ピーターの法則と言うのは人は、ある階層で機能しなくなるまで=「無能」になるまで昇進し、無能なレベルに達するとそこで昇進が止まる。と言うことです(関心空間:ピ?ターの法則より引用)。そもそも無限..... 続きを読む
ブログの終わりの地点には、キーボード入力が出来る人あたりの数字が限界のような気がする。 インターネットと言えばホームページであり、最初にプロバイダに加入するときに、そのプロバイダがおすすめしている、誰でも簡単にホームページが作れます。というふれこみで参加するという感じが多いが、インターネットを買ったが、ホームページはあまりの難しさに放棄したユーザーの数と、インターネットを買った時に、ホームページというふれこみの代わりに、これから簡単で楽しいブログを始めようという言葉で始めた人の数が少なくなったときが... 続きを読む
やっぱり、これだけ本が多くなるとさすがにブームとしては終わってるなあと感じる。(笑) 次はブログか原作になってる本が溢れ出したら本当に危険信号。(笑)... 続きを読む
ブログはもうダメなのかどうか祭り、まだ続いているようですね。以下のリンク辺りのトラバを辿ると、色々な意見を読めると思います。 続きを読む
最近、アルファブロガー(的立場の人々)が各所で叩かれている。いや、各所っつーのはそれぞれが運営するブログで、ってことなんですが(笑えない)僕のブログは父方のおじいちゃんも天国できっと読んでるので「アルファブロガーとは何ぞや?」っつーのを少しだけ説明すると『...... 続きを読む
粘着してごめんなさい。ブログの終わりじゃなくて、アルファブロガーの終わりでしょ(笑)の続き。「ブログ」の終焉に感じた違和感について少し。以下の部分が僕と真逆だなあと。実名、匿名問題でリアルとサイバーに触れる人がいますが、「電車男」と言う形で、2ちゃんが「...... 続きを読む
最近、「ブログの終わり」という話がブログ界隈で盛り上がっている。4月末には「ブログブームの終わり」というタイトルの記事が象徴する「ブログの予想以上の内容の薄さ」が取りざたされた。そして、5月末、「ブログに魅力を感じなくなった」という「ブログの終焉」という話が「ブログの匿名・実名議論」と絡んで持ち出され、それは一方で「ネットって一時期飽きたりすることがあるんだよね」という話にもつながっている。 で、それで思い出したのは、1年半前――ちょうどココログが登場する前後だ――にブログ論壇界隈で話題になって... 続きを読む
R30:ブログブームの終わりとかガ島通信:「ブログ」の終焉をみていて思うのは、専門分野の能力や分析力、執筆力は高い人たちなんだけど、(仮に日本語限定としても)ほんとうに様々な人が相互に影響を及ぼしながらいろいろなことを書いているネット全体の中で、自分たちのブログを位置づけるという能力に欠けているのかなという気がする。相互の影響というのは、ネット上のやり取りだけではなく、会うことも含まれる。もちろん会って話すことのほうが?... 続きを読む
今日も読んでくれてありがとうございます。楽しんで頂けてますでしょうか?どうもよくお越しくださいました。サービス精神旺盛な文章を書かせてみると、クラスで2番手くらいだった気がします。
これまであまりこのブログ上では自分がお給料をいただいているgooの告知っぽいことは控えてきたのですが... 続きを読む
流行というものはそういうものだけど、ひっそりしたところで天才が世間の目の届かないところから活動するという例はあるよ。桃青から芭蕉と名を変えて隠棲したことや…。ただ、仲間や支援者がいないとならないけどね。マスに揉まれているだけでは、磨り減るだけなのかもね。
個人的にこの点が、気になります。米国では日本より表立ってディベートする方やそれを臆さない方が多いので自然な流れができたような気がする。日本では分極で、一方で保身、一方でラジカル、多くはメディアに対するスタンスが受身なので繋ぐ人の数がまず圧倒的に少ない。
>そして、これから後の展開を予測するのもそれほど難しくない気がする。端的に言えば、徹底して構造変化に抵抗し続けるという、97年以前の銀行業界のような戦略をとり続けるが故に、世間の構造変化の加重が一定値を超えた瞬間、ある日突然バキーンと轟音を立てて業界ごと崩れ落ちることになるのかもしれない。が、実際のところそのへんは僕にも分からない。
こういうことを銀行の例で学んだ筈なのに、スムーズに持っていく人が出てこない、企業がそういう人材や組織を求めないというのも、少し残念な気が。んでも、ラジカル周りでは、ぼちぼちあるるんですかね。
え、端くれ者とか言ってるおまえは何様かって?うんこですようんこ。うんこに決まってるじゃないですか>Giraudさん
だって・・・磯崎さんと湯川さんが文化・知識人に入っているのに隊長とマナベが端くれ者って・・・GLOCOMで発表した直後にそれは・・・弄られキャラだとは思いますけど。
かってアメリカでニューペインティングという手法(絵画の手法の一種)が流行っていた時期がありました。日本のアーチストもそれをまねして自由に描けばよいということで、感情と情緒だけのヘタウマというお絵かきの手法が流行りました。その絵がもっているロジックさは受け継がず抜け落ち、まねだけでした。そのうちブームは終わりました。日本のブログもこれとそっくりです。
ブログのブームが去った後、「詩人」がでてくれば最高にグットだとおもうよ、リアルタイムでその詩人の精神を感じるなんて最高!既存の出版界のシステムによらずダイレクトにね。権威あるやつが選んだ「現代詩人」なんか関係ない。ネット上で誰もが天才と認める人だね。
それは「イジドール・デュカス」か「アルチュール・ランボー」クラスだね。あるいは「ネルヴァル」の(オーレリア)のようなもだったらすごい。可能性はあるとおもうよ。ただし「文化、社会、文明」を感じ、「詩」を理解できるリテラシーの持ち主がネット上にいればの話ではある。
まぁブームは2,3年で終結するのが世の常だから、その間に先行者利益をどんだけ上げられたかがポイントでしょうな。おそらくここ1,2年のうちにブログのブランド価値は急速に落ちるから、あとは残存者利益体質になるだろね。
あと、どうせポイント稼ぎ戦略に走るなら往年の「侍魂」みたいにトコトンえげつなくやらないと駄目でしょ。文章から引き込み戦略から。中途半端に上品ぶっても仕方ないってのは、あるね。
ネット有名人⇒リアル有名人という流れで生じる受け手の心境の変化は無料⇒課金によって生じるものと同じで面白い。
一時的に冷静さを失ったのだとは思うけど、やっぱりそれはやっちゃだめなことであって、まあがっかりですわ。
ホリエ騒動の時は商法屋から株屋からいろいろな人がメディアよりずっと素早く詳細に解説・読み筋を書いてくれて「ブログってすげえ」「ホリエの言うマスコミ不要論もあながち…」と思わせる局面もあったけど、今回の脱線事故ではピンと来るブログが何も引っかかってこなかった。向くジャンルと向かないジャンルがあるんだろうけど、ホリエ騒動の一段落とともにブログ熱も一段落しちゃった感はありますね。
隊長ブログおよび関連2ちゃんスレの荒れようは尋常じゃありません。ていうか、なんかへん。普通ならあれほど荒れない。自白強要、提訴強要の書き込みが短期間に数多く行われています。
単に「ちっ、ブームに乗り損ねたか。かっこわりーな俺w」と言いたいだけなら、それはそれで正解なのだと思いますが、それすらも執筆者のポリシーでしょう。ブームに乗るのが目的で書いていたのなら、そろそろ潮時ではあるでしょうね。
シックス・アパート、ブログメディア構築・運営サービスを提供 (ブログでホームページ作成,製作,-MTデザイン)

 

[ 482] 「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年 - くだらない踊り方
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/rmxtori/20071230/p1

忘年会も一段落し、時間もある。ちょうどいい機会だ。(感傷的に、そして大げさに言えば)自分の青春を捧げた大好きな音楽を取り巻く世界が今どうなっているか、僕の目から見た現状を書きとめておくのも悪くない。
音楽に限らずコンテンツ産業に関わった人間なら共感してくれるだろうが、売れる売れないと質の良し悪しは今も昔もあまり関係ない。
ちょうど10年位前、CDが最も売れていた時代にも質の高い音楽と質の高くない音楽がそれぞれ無数にあった。そしてガシガシ売れていたのはむしろ質の高くない音楽だった。
いや、質の高くない、と断じるのは語弊があるかもしれない。「そもそも音楽における質とは何かね?」という問題もある。ので志の高い低いで言い表してもいい。
10年前、売れていたCDとはドラマやCMのタイアップ曲だったり、カラオケで歌いやすい曲だったりした(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットした)。
当時、テレビはまだエンターテイメントの中心にそびえ立っていて、その中でもドラマは若者であれば「誰もが見るもの」だった。
学校や職場の友達とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く。そんな場面のひとつのピースとして音楽があった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くタネだった。
だからこそ、「みんなが聞くからみんなが聞く」というインフレーションを起こし、ミリオン・ヒットが量産されていった。それが10年前だ。
テレビのエンタメ王者としての権勢には陰りが見え、娯楽はどんどん多様化していく。特に台頭したの新しいコミュニケーション・ツール、携帯だ。
カラオケは相変わらずコミュニケーションの場として堅調だが、カラオケで歌うためだけならわざわざCDは買わない。レンタルや友達に借りる、あるいは違法ダウンロードしたものをCDRにコピーできればそれで十分だ。
それよりも、音楽自体に対する関心の強弱とは関係なく、音楽を媒介にしたコミュニケーションに興味ある一般層がターゲットだった。
ロックフェスのチケットはいつもソールド。友達や恋人と一緒に夏の思い出を作る。だがそこに出演していたアーティストのCDは売れない。
Wiiのようにみんなで楽しめるハードがヒット。ネットワークを使ったゲームや脳トレのようにわかりやすくコミュニケーションのネタになるものも売れる。だが、ひとりでも楽しめるマリオやゼルダは伸び悩んでいるらしい。
だが「関係性がすべて」なのは昔から変わっていないような気がする。ただ携帯電話やPCなどコミュニケーションツールの進歩でより顕在化しただけだろう。
一方でCDを聴くという行為はどこまで行ってもごくごく個人的なものだ。それ自体は変えようがない。
CDだけじゃない。音楽配信だって状況は同じ。実際うまくいっていないし、これからもうまくいかないだろう。
あ、携帯の着うただったら、誰かと一緒に聞くっていうのもありうるかもしれない。でも、ほら、違法着うたが正規の配信を超えたというニュースが最近流れたばかりだ。結局、レーベルにもアーティストにもお金は分配されない。
だが実際のところ、メジャー・レコード会社は決してアーティストから搾取していない。いや、正確に書くのならば、メジャー・レコード会社は決して大多数のアーティストから搾取していない。
ミスチルでも宇多田でもドリカムでも誰でもいいが、彼らのように売れているアーティストたちには、もっと利益が分配されてしかるべきかもしれない。浜崎ひとりがエイベックスの社員とその家族の生活を支えていた状況に比べると、彼女が手にしたものはあまりに小さい。彼女たちのようなビッグ・ネームは、その功績に比べると分け前が小さいという意味で、メジャー・レコード会社から搾取されているといえるかもしれない。
だが、そうではないアーティスト――レコード会社が抱えるアーティストの99%――は違う。彼らは決して搾取されていない。彼らのCDは、そのリリースに関わった社員の給与分も利益をあげていないこともある。商業的な結果だけを見れば、赤字なのだ。
そういった大多数のアーティストの作品は、ごく一部のビッグ・ネームが稼ぎ出した利益から作られている。赤字もその分け前から補填される。そうやって育成された新人の中からまた次のビッグ・ネームが生まれる、と信じるからこそである。
2007年は海外のビッグ・ネームたちのレーベル離れが進んだ年でもある。レディオヘッド、マドンナ、ナイン・インチ・ネイルス、プリンス。彼らも搾取されていると感じていたのかもしれない。とにかく彼らビッグ・ネームは、レコード会社にマージンを抜かれることを拒否し、自立の道を選んだ。ビッグ・ネームだからこそ出来ることだ。
ビッグ・ネームのレーベル離れ。その結果、引き起こされるのは新人アーティスト達の制作環境の悪化だろう。レーベルは、確実に売れるものしかリリースできなくなる。海のものとも山のものともわからない新人にお金なんてかけられない。新しいものは世に出にくくなる。
CDが売れていた10年前はインディー・シーンも活況だった。ミリオンヒットの生み出す利益のおかげで、レコード店も「売れないけど志の高い音楽」を店頭に並べる余裕があった。メジャー・レコード会社も新人開発を積極的に行った。90年代、インディーからスターが生まれ、アイドル誌のカウンターでしかなかったロッキング・オン・ジャパンが急速にメインストリーム化していった。
2008年にはいくつかのメジャー・レコード会社が静かにレーベルとしての活動をとめるだろう。たとえ、会社として潰れなくてもレーベルとしての機能は停止する。
2007年は、厳しい状況のHMVが証券会社に買われ、シスコやマンハッタンが店舗を閉じた。2008年も専門店はいくつも潰れるだろう。それでもタワーには頑張ってもらわないと。タワーがHMVのようになったら、なんてことを本気で心配するときが来るとは思わなかった。でもタワーだって楽ではないのは知っている。若い店員たちがどれほど苦しんでいるのかも。
まず、ポジショントークといわれるのは仕方ないと思う。業界の内部からの視点であることは間違いないわけで。
けれども、「だから音楽業界を守ろうよ」とは全然思わないし、そんなことが出来るとも思っていない。
ただ一方で、自分たちの仕事への自負のようなものはもちろんある。やはり情熱を傾けてやってきた仕事だし、「レコード会社なんてなくても全然OKだよ」とは言えない。
あと国内に限っていえば、死守しなければいけないような既得権益なんていうのもないです。「権益だなんて…大層な…」と笑っちゃうようなショボイ状況です。
特に、新聞の付録として自分の新作を提供したプリンスのやり方は示唆的。もちろん、この新聞社は販促費を殿下に支払っている。
というわけで、レコード会社が代理店化する、あるいはレコード会社に代理店がとってかわるというのはありそう。
さすがにパッケージに広告を載せるのは、曲がりなりにも「アート」を名乗る以上、アーティストが嫌がりそうだけど。でも、裏ジャケがユニクロやリーバイスの広告になったCDが発売されてもそんなには驚かない。
あと、筆がすべり気味に「音楽業界は死ぬ」なんて書いちゃったけど、とはいってもレコード会社が全部なくなることはないと思う。寡占的に数社が残る。数は多くはないだろうけど、レコード会社という機能を必要とするユーザーやアーティストは一定数存在し続けるだろうし。
ただし、それで「業界」と呼べる体を成しているかどうかは疑問。業界としては死んだに等しいとも言えるかも。
まあ、元々日本の音楽業界は、家電メーカーが自社製品を売るために支えていたわけで。それ以外でも、お金を持っててワンマン経営な会社が、社長のオモチャのようにレコード会社を持ってる例はいくつもある。
メジャーもインディーも、レコード店というユーザーと直接対峙する媒体を共有しているし、マーケットも共有している。ので、元の文に書いたとおり、小売店がメジャー作品で大きな利益があげられないと、より売れないもの、つまり多くのインディー作品から入荷を抑制されていくわけで。
インディー界隈も「メジャーがどうなろうと知らんわ」と思っていたら、実際はそうもいかなかった、という。
メジャーの体力が落ちて新人開発を行なう余裕がなくなってきているので、その役目を以前にも増してインディーが担うようになってきており、交流もさかん。
三大(誤記)四大メジャーが君臨する欧米に比べたら、日本は中小乱立型で、メジャーとインディーの違いは比較的小さい。
まったくの余談だけど、実は日本ではそもそも何をもってメジャー/インディーをわけるのか、というのが結構曖昧。
一応、「レコード協会に加盟しているか否か」とか「どの物流を使っているか」とかという目安はあるが、一般的にインディーと呼ばれている会社も、レコード協会に加盟していたり、メジャーと同じ物流会社を使っていたりする。
音楽に限らず、コンテンツを出来るだけ安く、もしくは無償で手に入れたいという欲求がユーザーの間に非常に強くある、ということは、それはもう日常的に感じてる。
その良し悪しには個人的にはあまり関心がなく、ただ「そういう状況なんだな」と認識しているというだけだけど。
ただし現状で単に値段を下げるというのはもうビジネス的に破綻していくだけなので、前述のプリンスのように広告モデルを構築するしかありえないんじゃないかと。でも、それはもうちょっと先の話でしょうね。
一方で面白いのが、コンテンツ自体ではなく、それを通じて誰かと関係性を築けるようなプラットフォームにはお金が落ちるということ。例えば、ニコニコ動画の有料会員のように。
元の文にも書いたけど、カラオケやロックフェスのようなプラットフォームにはまだお金が落ちている。フェスのチケットは出演者(コンテンツ)の発表前に売れちゃうわけです。
筆が感傷的に走りすぎ、というのは反論の余地もございません。まあ、現場感ということで割り引いていただければ。
ただ「音楽」ではなく「ポップ・ミュージック」「ポピュラー・ミュージック」と書けば、もうちょいわかりやすくなったかな、と思っています。
もちろん、個々人の音楽へ関わりというのはなくならない。ニコニコでもマイスペでもジャズでも80年代歌謡でも洋楽でもそれぞれの中での「いや俺はこれ好きだけど」という盛り上がりはあるのだろうし(実際ブクマでもあったし)、「それぞれが曲を作りそれぞれが曲を聴き」というパーソナルとパーソナルの間でのコンテンツのやり取りは続くだろうし、その媒体になるのがネットだというのも確かですね。
その良し悪しはいろいろありすぎて一言では言い表せないけれど、仕事を別にすれば、個人的には好ましい流れだと思っています。ただ、トラバ元でも書いている通り、それではビジネスモデルとしては中々成り立たないのも確かで。
サマソニのトリでレディオヘッドが「クリープ」を演ってみんながワーってなる、っというのはその音の良し悪しだけの話ではないですよね。レディオヘッドがあのビジネスモデルを構築できたのはそれを支えるポピュラリティーを既に獲得していたから、というのはちょっと皮肉だなあ、とは思う。
話は変わりますが、しかし、あのCDが売れていた10数年前に「これからはパーソナルな関係性がすべて」と『H』を創刊した渋谷さんはさすがでした。ネットの台頭で誌面を使った方法論はうまくいかず、雑誌の内容は全然違う方向へ変容しましたけど。
あとROさんは、見事にコンテンツ商売(雑誌)からプラットフォーム/コミュニケーション型(フェス)へ移行していますね。細かいところでいろいろ思うことはありますが、ただ、やっぱりさすがだなあと。
しがらみの多い外資やテレビ系、基礎体力の弱いインディーは難しそうですね。となると、やっぱりエイベックスさんくらいしか思い浮かばない。と自分で書いてて驚くわけで。10年前、エイベックスに自分が何か期待するとは思わなかったなと。
そのエイベックスが昨年末にリリースした、スチャダラとスライ・マングースによるユニット名が「ハロー・ワークス」だったっていうのは笑えないジョークです。世間的にはSDPとスラマンがエイベックス所属っていうのもそもそも不思議な感じかもしれないですが。というか教授のレーベル、commmonsもエイベックス傘下なんですよね。つまり、ボアダムスも。実際、エイベックスがメジャーでは最も先端的なことを試みてるわけで。そうやってシーンを育成しているわけです。
あと、タワーの筆頭株主がドコモだって言うのもこうやって考えると味わい深いですね。ナップスターのような「パッケージ→データ」という小改革ではなく、広告モデルやプラットフォーム/コミュニケーション型への根本的な改革の提案があればいいな、と。まあ、ただ、現状認識では一致しても「で具体的に何をすればいいの?」というところでみんな止まっちゃうわけですが。
想像以上に多くの人(それこそ実際にインディー作品が届いている人数よりはるかにはるかに多くの)に読んでもらえたみたいで、興味深い意見も沢山ありました。
それを読みながらいろいろああでもないこうでもないと考えてる自分に気づき、「なんだ、結局、解決策を探してあがいてるんじゃん」と笑いました。
僕も、「使える音楽しか残れない」といい続けてきましたが、ユーザーは「音楽以外の第二の人生を考える」とは。ふーむ…。
新しいビジネスモデルなのですが、鈴木亜美のように書籍として売る、という方法は汎用的なモデルにはなり得ないのでしょうか。
「おもてなし」といえば。マンガとか映画という“虚構の”世界において、「お客様のために」という合言葉の下奮闘努力している主人公たちの活躍を感動して見ることが出来ますが(現実は違うことは、わかってます)、音楽ホールにしろ映画館にしろ、器は空間賃貸業であって、興行主と館主とでは「おもてなし」の連携が取れていず、お客は「流れ作業」であしらわれております。また私が知らないことなんですが、>>広告営業は相当厳しい状況のはずだ。演奏家ではなくて事務員って、目の前の仕事をこなすことに精一杯で・目の前の仕事をこなすことしか出来なくて、自身が新しい仕事を開拓してないんじゃないですか?音楽自身の価値が減少しているのに、従来の仕事しかしない・出来なければ、収入は減っていくわけですから、新しい仕事・発想をしないといけないと思うのですが、新機軸の創意工夫が全く伝わってこないです。とまぁ、CDについてではなく生演奏を中心に考えている者の意見なんですけど。
読んで、理解がシャープになりました。エッジの上で書いた文章だと思いました。文が研ぎ澄まされている、というか。言葉の裏側にリアルを感じたからでしょうね。やっぱり人って関係性がすべて、なんですかね。
音楽の価値が下がったわけではなくて、CDの価値が下がっただけだと思います。インターネットの普及のおかげでミュージシャンはCDを作らなくても多くの人に自分たちの曲を聴いてもらえる環境が整ったのだと思います。その昔、自分のやりたい音楽を捨てて、皆が喜ぶ音楽をやり始めたとかいう話がよくありましたが、そっちの方がミジメな気がします。本当に理解し合える音楽仲間と好きなようにやって、しかもそれがビジネスになればすばらしいと思います。まだまだ時間はかかると思うんですが、そういう時代がもうすぐやってくると思います。それは音楽だけではなくて、絵とか小説とか、もしかしたら車や飛行機とかの工業製品にもやってくるかも。もちろん現在のそれぞれの業界が抵抗するとおもいますが...。
興味深いお話でした。ユニクロやリーバイスが裏ジャケのCDが出る、というのは十分ある話ですね。私は主にインディーズを聞いているので、彼らが活動しにくくなるというのはやはり悲しいです。

 

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