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淘汰とは?/ アイフル

[ 371] グーグルに淘汰されない知的生産術 - My Life Between Silicon Valley and Japan
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20080509/p1

「中央公論」編集部の田中正敏さんからメールが届いた。「『ウェブ時代をゆく』を語る」をまとめてくださった田中さんである。
「グーグルに淘汰されない知的生産術」ですが、『読売新聞』書評同様、もしよろしければ販売期間終了後(5月9日)を目処にブログにて公開していただいても、と思います。非常に充実したお話でしたので、より多くの方の目に触れればと思う次第です。
「中央公論」五月号の「特集・知的整理法革命」(野口悠紀雄、梅田望夫、外山滋比古、佐藤優、勝間和代、茂木健一郎)という文脈で、田中さんの取材を受け、勉強や仕事の仕方について僕が二時間ほど話をした内容をもとに、彼が文章にまとめてくれたものです。
さすがにこのテーマだとほぼすべての人が、それぞれの観点からグーグルを論じていて面白かったです。
ウェブ時代に生きる私たちは、日々膨大な情報と接しています。そこから本当に有用な情報を選択し、後に必要になったとき、そのエッセンスを素早く引き出せるように整理できるかどうか。これが知的生産の効率を大きく左右します。
情報の整理については、これまでもさまざまなテクニックが紹介されてきました。しかし、グーグルの登場が情報整理のあり方を根本的に変えました。頭の片隅に残っているいくつかの言葉で検索すれば、探していた情報に辿り着けるようになったからです。今はまだ最初からウェブ向けに書かれた情報が中心で、本や雑誌など活字の情報は限られていますが、全世界の本をすべてデータ化してしまおうという「グーグル・ブックサーチ」プロジェクトがさらに進めば、古今東西のあらゆる本もその対象となるでしょう。
変化は急速に進んでいます。『ニューヨーク・タイムズ』や『ウォールストリート・ジャーナル』のように、記事への課金にこだわり、そのためグーグルの検索の手が及ばなかったメディアも、前者は全面的に、後者は徐々にという違いこそあれ、開放へと舵を切っています。この流れは止まりそうにありません。グーグルの検索が活字の世界まで覆うことを前提に、本当に効果のある情報整理だけを行う。そういう心構えが必要でしょう。
つまり、気になった記事や論文を切り出して、ファイルに保存して……といった旧来の整理法はもはや無意味で、自己満足にしかなりません。これは紙によるアナログなものだけを言っているのではなく、デジタルのデータを自分のパソコンに保存するとしても同じことです。グーグルが全世界規模でブルドーザーのように情報整理を行っているので、印象に残った記事や論文全体を読みたいのなら、関連するキーワードを三つくらい入力してグーグルで検索すれば、すぐに呼び出せるようになります。
僕は近年のグーグルの急成長を受けて、グーグルで一から探すよりもずっと早く必要な情報のエッセンスに辿り着けるよう、情報整理の技術を磨いてきました。
カギを握る考え方は、グーグルが扱う情報の単位、つまり記事、ウェブサイト、論文といった単位よりも、粒度の高いレベルでの情報整理を、情報処理の時点で行っておくことです。
まず、情報全体をそのまま保存するのではなく、元の情報を凝縮したものを書き出します。それは要約でもいいと思いますが、僕の場合はその文章の「肝」だと感じた箇所を抜き書きするようにしています。
書き出す先は、非公開設定にしているグループウェア上のブログです(長い引用をした場合、著作権の問題も発生するので、公開していません)。こうしてウェブ上のプライベートな空間に、精選・凝縮した情報を集めることで、脳の外部記憶装置の役目を持たせています。ウェブ上にあるので、その後の検索や閲覧、管理も容易ですし、研究や仕事の仲間との共有も簡単です。
某か凝縮した内容を「書き出す」という点が重要です。梅棹忠夫が『知的生産の技術』で、知的生産とは「あたらしい情報をつくりだす作業」だと喝破していましたが、情報の「肝」を書き出すという、より粒度の高い、きめ細かな整理を行うことで、整理の段階から知的生産を始めることができるのです。情報を整理し、それを元に知的生産を行う、と分けて考えがちですが、単純な整理はグーグルが担ってくれる今、両者は不可分なものになっています。
裏を返せば、「肝」以外を捨てる技術だと言えるかもしれません。とりわけウェブの情報量は無限大で、かつ玉石混淆なので取捨選択が重要ですし、本を精読するにしても、その情報を使いこなすためには凝縮が必要です。いい寿司屋は、魚の本当にいい部分だけを残して、他は惜しげもなく捨てますよね。自分でルールを作り、同じことを情報について行う。するとウェブ上のプライベート空間に、最高のネタがびっしり敷き詰められます。グーグルに淘汰されない情報空間を自分で作るわけです。そしてそのネタを使って最高の寿司を握る、つまり知的生産に繋げていくのです。
では実際に、僕は一冊の本をどのように読んでいるか。本を読むときに欠かさないのは、読んでいて気になったページの上端を折ることです。こうしないと後でその箇所を探すときにムダな時間がかかってしまう。線まで引くと思考が途切れるので、読書中は上端を折るだけです。
読み終わると、その必要がある優れた本であれば、言葉を抽出し、プライベートなブログに書き写す作業に入ります。折り目のついたページが一五ページあるとすると、そこだけを再読し、「これが肝だ」という箇所をカギ括弧で括ります。すると二〇から三〇程度の箇所が残る。パソコンに向かって打ち込む際に、さらに選別して、特に心に残った箇所だけを書き込みます。
一連の作業には時間をとられるので、その時間投資に見合うだけの、本当に精選・凝縮した内容を抽出するように気をつけています。後からその本の内容を参照するときには、書き写した文章をまず見ます。原稿を書くときに引用するのも、決まってそのうちの一文です。万が一、それに満足できなければ、だんだん戻っていけばいい。つまりカギ括弧で括ったけれど書き写さなかった箇所、そして折ったページ周辺、それでも見つからなければ本全体をもう一度確認するわけですが、そこまで戻ることはまずありませんね。
本を読む際にこういう作業をしていると、書く側に回ったとき、絶対に捨てられない文章ばかりで全体を満たすというのが目標になります。だから、「全ページに折り目をつけてしまった」とか、「すべての文章に線を引きたくなった」といった感想を読むと嬉しいですね。『ウェブ進化論』を出して以来、二万以上の感想を読んできましたが、本のありとあらゆる箇所に対していろいろな角度からたくさんの感想が述べられるということは、それだけ密度の濃い本を出せた証拠じゃないかと感じています。
しかし、他人の文章を読んでどんどん切り落としていく厳しさで文章を書くことを自らに課すと、それまでの一〇倍や一〇〇倍の努力が必要になることがわかりました。費やす時間を考えたとき、経済的につりあうかというと……(笑)。ただ僕の場合、経済合理性は本業であるコンサルティングや投資のビジネスに置いて、著作活動に対しては、あえて採算度外視で思いきった時間投資をしています。それが本当に好きなことだからです。
また、これからの知的活動において、どこの組織に属しているかという要素は、これまでほど重要ではなくなると思っています。なぜなら、グーグルなどウェブの力により、誰もが無料で多くのことを勉強できるようになってきたからです。現時点では、あらゆる分野に敷かれているわけではないですが、「学習の高速道路」と呼ぶべき、構造化された知のシステムがいろいろな分野で構築され、提供されています。世界中の大学の講義もどんどん公開されています。
これからの知的生産は、組織ではなく時間の勝負になるのではないでしょうか。僕は「在野の時代」が来ると思っているんです。大学などの組織に属していなくても、時間が自由に使える状態にあれば、それはとても大きなアドバンテージになる。早期にリタイアした人や、結婚して仕事を辞めた主婦などに、高度な知的能力を備えた人が少なくありません。事務処理や会議に忙殺されて知的生産の時間がとれない大学教授よりも、時間を自由に使える在野の人が輝く時代が訪れるのではないでしょうか。
大学の先生は「一般人に負けるわけがない」と思うかもしれないけれど、じっくり考える時間が持てずに、本当に知的活動ができているのか、真摯に考える必要があると思います。もちろん専門分野の知識では、一般人は勝てないかもしれないが、より総合的な知的能力や言語化する能力、その結果の知的生産物という点では、どうでしょうか。これからの時代、知的活動において、時間がない人こそが圧倒的な敗者になるのではないかと思います。
僕の場合はある時から、自宅のあるアメリカのシリコンバレーでは可能な限り人に会わず、物理的な移動をしない、というルールにしたことで、知的活動に割ける時間が一気に増えました。今は一日中研究したり勉強したりしていると言ってもいいくらいです。そして、そこで得たものをムダにしないよう情報の整理に心を砕いているのは、既に述べたとおりです。
書くことにおそろしく時間をかけるので、テーマ選定には細心の注意を払い続けています。現代において自分が取り組むべき重要なテーマは何か、それは自分の固有な経験が活き、誰も手がけていないことだろうか、といったことに、パラノイアのようにこだわっていますね。他の人と同じ内容を書くことで、時間をムダに費やすのが嫌なんです。情報の選択と抽出というミクロな作業の一方で、自分の立場を俯瞰的に見たマクロな判断が欠かせません。
僕は年に、日本語、英語あわせて一〇〇〇冊ほどの本を買っているのですが、しゃぶり尽くすように読み、細部の抽出にまで至る本は三〇冊くらいです。何が書かれているのか、内容を確認するための読書が多いです。読書というより、扱っているテーマや書き方を把握するだけの、まさに「確認作業」ですから、一冊あたり五分や一〇分で終わります。特にITや経営など、僕と専門が重なる著者による本は、自分が他人と同じことを書かないで済むようにくまなくチェックします。こういった作業を素早くできるという意味で、ウェブに比べて本の俯瞰性がとても役に立ちます。この点は本という形態の強みですね。「俯瞰」ということも、グーグルを超えて、私たちに求められるキーワードでしょう。
ちなみに自宅と会社には、本が合計一万五〇〇〇冊ほどありますが、本の整理についても、どういう配置にすると必要な本に辿り着くまでのアクセス時間を短縮できるか、いつも考えています。
本棚ごとにジャンル分けをしており、たとえば会社の本棚にはITや経営、経済、シリコンバレーに関する本を、それ以外は自宅に置いていますが、それよりも重要なのは、すぐにアクセスする必要のある、その時点で自分にとって重要な本を、手に取りやすい位置に出しておくということです。だいたい手前から奥へ本を二、三列にして並べているのですが、必要性が薄れるごとに後ろに下げて、二度と必要ないと判断すれば処分するようにします。もちろん机の上に置いてある本は、そのとき一番重要なものですね。
本棚はその時々の自分の写し絵だと考えています。だから、年に一度くらい、大規模な配置替えを行いますね。果たして配置替えの時間を投資するほど、自分の関心は変わっただろうかと常に注意していて、あるとき見極めて、一気に取り掛かります。配置替えが終わった本棚を俯瞰して眺めることで、自分のテーマが浮かび上がってくることもあります。本棚というのは、そもそも大量の本を俯瞰して眺める道具でもあるわけですから。
何事についても、僕が考えるときの軸はまず時間なんですね。いわば「唯時間論」。知的生産の工夫についても、全部時間を切り口に説明できます。自分の自由にできる時間をいかにたくさん生み出すか。そればかり考えている。
そのための核にあるのが、情報を選択・抽出するためのミクロな技術であり、一方では自分にとってなすべきことかどうかを判断する俯瞰的な、マクロな技術です。これらのグーグルが担わない技術を確立している人こそが、グーグルに淘汰されず、グーグルを本当に使いこなせるし、その登場に興奮できるのだと思います。
僕はグーグル以前から、そういった技を身に付けてきたつもりです。だから、旧来の整理が必要なくなり、知的生産の始まりとしての整理に集中できるようになったことで、自分の力が急激に増幅され、知的生産の効率が飛躍的に高まりました。グーグルが僕にエンジンをつけてくれたような感動があります。その結果、僕は『ウェブ進化論』のような本を書けた。僕は最近寿命が延びたような感じさえするんですよ。効率がよくなって時間がますます凝縮されたから、でしょうね。
最後に読者に伝えたいことがあります。広く「知的生活」と言いますが、知的生活というのは知的消費と知的生産を含んだ概念です。梅棹忠夫が述べているように、本を読むだけで終わるなら、それは知的消費であり、感想文を書くなりして初めて知的生産になる。その差は突き詰めて言えば「書く」かどうかにある。知的生活を充実させるにあたり、最初の関門は「書く」ことだと思います。
次の選択肢は、書いたものをオープンにするか、それともクローズにするかということでしょう。かつてならば、広く一般に発表するには出版社を探すなり、それが難しいなら仲間を集めて同人誌を作るなどの、乗り越えなければならない壁がありました。しかし、今はブログなどのサービスを利用して、ウェブ上で手軽に文章を発表できるようになりました。ぜひ文章をオープンにしてみましょう。すると今度はあなたと関心や志向性の近い人たちとの結びつきが生まれ、新たな知の創造へと繋がります。
つまり、まずは旧来の整理をグーグルに任せ、知的生産のスタートに必要な情報の整理に集中し、知的生活のための時間と「ネタ」を確保しましょう。そして次に文章を書き、ウェブで公開する。すると創発的な、知の共同作業のような状況が生まれる。今度はそれをフィードバックし、新たな知的生産に繋げる。
こういった知的活動のプロセスが万人に開かれ、個の知的生産能力が大きくパワーアップされたのが今の時代です。グーグルの創業者たちが「世界はより良い場所になってきている」「興奮すべき素晴らしい時代だ」と言うのは、こういう状況を指しているのです。
2008/05/09 18:15 大変参考になりました。ありがとうございます。会議や打ち合わせをしているときなどに、読んだ本の事例を相手に伝えられるほど正確に思い出せなかったりしたとき、ケータイを使って自分のブログにアクセスしています。ネットケータイでgoogleを呼び出す。検索欄に自分のブログのキーワードと思い出したい事例のキーワードを入力し検索する。すると大概、欲しい自分のブログページを探し当ててくちゃいます。最大のネックはそのわずかな時間がその場で捻出できるかどうか。もっとスムーズにアクセスできればいいのにと常々思っています。一方で、「書く」(生産)の品質が追いついていないせいか、なかなか、自分のブログは「結び」つかないです。結びつきはともかく、こうやってネット上のオープンネット書斎みたいなものがそろってくるとますます、知的消費・生産をしている人の消費・生産技術は磨きがかかってくるでしょうね。その先、どうなるのか楽しみです。
2008/05/09 20:31 ネットと検索エンジンを持ち上げすぎてるような気がします。今でも検索しても手に入らない情報の方が多いから逆にネットが日々進歩してるような印象があります。情報がたとえネット上のどこかにアップされていても辿り着けないこともあります。
2008/05/09 21:59 30代エンジニアです。この歳になって、ようやく時間の大切さがわかってきました。また、私のしていたことは単なる知的消費であって、知的生活を充実させるための最初の関門さえ突破していないことを実感できました。まずは、最初の関門を突破できるよう挑戦してみようと思います。私の周囲だけかもしれませんが、私のように知的生活ができていない技術者は少なからずいるように思います。日本が世界と渡りあっていくには、私のような人種を、知的生活をする人種に変え、知的生産性の底上げを図ることが1つの条件になるのではないかと思います。偉そうな表現になってしまいますが、時間や知的生活を意識するエンジニアが増えて、優秀なエンジニアの層が拡大し、優れた日本人エンジニアの認知度が世界でもっと上がればいいな、と思っています。次の記事も楽しみにしております。
2008/05/10 07:44 昨年 成績不振の外回り営業をやめ、 その時間を会社にいて ビジネス書を読み漁る時間にしました。 当時はかなり思い切った行動でした。 時間を作り出し 考える時間の大切さをしりました。 それで梅田さんの著書に出会うことができました。今年からは 毎日ブログを書くことでアウトプットしています。 「万人に開かれた時代」まさに実感できる言葉です。
2008/05/10 07:47 私は社会人2年目のディベロッパーです。梅田さんの書籍「ウェブ進化論」と「ウェブ時代をゆく」を読み、はてなでブログを書き始めました。ブログによって自分なりの情報発信をすることで、知的生産をしているつもりではありますが、良い知的生産物を生み出すということはなかなか難しいことだと、ブログを始めてから常々考えています。「自分なりの言葉」で世の中にプラスとなる情報を生み出すことを難しく感じたり、「価値ある情報」を生み出したいと思うがあまり上手に運営できなくなったり。それでもやはり、自分なりの知的生産にあてられる自由な時間が十分にあるということは素晴らしいですよね。自分が欲する知識を存分に得ることができれば、良い生産もできそうですもんね。
2008/05/10 21:34 毎回良い話をありがとうございます。ところで個人的に気になっているのですが、研究や勉強のモチベーション管理ってどうしていますか?勉強をしようとも疲れていて、集中力がなくやる気がないこともありますよね。そんなときは、時間投資が必要と思いながらも他のことをしてしまいがちです。そんな時どうしてるかを、梅田さん流の勉強方法でも題しまして、お暇なとき一筆いただければ幸いです。
2008/05/11 05:10 普段、読書などでインプットした情報を結局大部分浪費させていたような気がしています。知的消費と知的生産の考え方は大変参考になりました。情報を取り入れ意味ある形に消化するのにきゅうきゅうとしてもしようがなく、如何に自分の頭で思考するか、それを何らかの形でアウトプット化し、世の中にいくらかでも役立たせることが出来ればと私も思います。IT起業研究所代表小松仁
2008/05/12 06:15 以前私は自身の日記で小汚い悪口ばかりを書きなぐってしまったのですが、その節は申し訳ありませんでした。通常ならこのコメント欄に踏み入る事も許されないでしょうが、折り入ってご相談があります。お気づきの通り、殺人予告という穏やかではない内容の記事がホットエントリーに出回っており、これに関しては何らかの対応をお願いしたいのです。パブリックコメントだけでも結構です。警察沙汰にすれば良いだけの問題ではないと思われます。お願い致します。
2008/05/12 08:07 はじめまして、来年度から出版社に編集者として勤める現在大学生のcomajojoです。一ヶ月前、「中央公論5月号」が出たあとすぐ、私は友人と共に野口さん、梅田さんの文章を凝縮したものをgoogle notebookで共有しておりました。内輪でシメシメと満足していました。ところが、今日梅田さんのブログに来てみると、全文掲載!おおきなひとだなと思うと同時に、「シメシメしてやったり。この文章を読むひとは少なかろう」といそいそ仲間内だけで満足していた自分が情けなくなります。梅田さんの本を全て読んだものの、相変わらず「そちら側」に加われませんね。梅田さんの本の面白さは内容もさることながら、レトリックの上手さによるのでは、と考えます。吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』のような稀代の名書を、梅田さんは書けるのでは、と夢想してしまいます。
2008/05/13 18:33 「サプライズ・ミー(わたしを驚かせてくれ)」は、パリを舞台にしたアニメ映画「レミーのおいしいレストラン」のクライマックスの胸打つひとこと。実はこのセリフにはフランスのアーティスト、セルジュ・ゲンズブールが先輩ジャン・コクトーから言われた有名なエピソードがあります。梅田氏は、誰も書いていないことを探すことも含めて読書という確認をされている。世界に向けて「サプライズ・ユー」と立ち向かっているようだ。創造の気概から勇気が立ち上がってくるのがなにより気持ちがいい。元気をごちそうさまです。ありがとうございます。
2008/05/22 20:16 エントリの本筋から離れた話題になりますが、今後「自由な時間が多い人達」がより知的活動の機会に恵まれる、というお話を大変共感しました。事実、地元でセミリタイアしている両親(ポスト団塊)の様子には帰省するたびに驚くものがあります。いずれ地域間、世代間の情報格差が無くなって、面白い爺さん婆さんがたくさんいる世の中になるといいなぁと思いました。
あれくらいの長い年月を費やさなければ、これくらいの作品は書けないのだということが、また、この喜びを味わうための四十数年の助走であったということが実感された。(日経新聞4/20/08)
ぶっ飛んだ小説を、原始的で、呪術的で、異常なまでの吸引力を秘め、それでいながら格調の高い大叙事詩のごとき長編小説を無性に書きたくなった。膨大な資料を読みあさりはじめたのが二年ほど前だった。そして、昨年の暮れに千三百枚を脱稿した。(日経新聞4/20/08)
日本が最も日本らしく、底抜けに自由で、生き生きとしていた室町時代を背景に、かの有名な「日月山水図」の屏風絵と、それを描いた作者が不詳であることを想像の起爆剤に用い、極めて大胆な発想によって、小説の原点とも言うべきめくるめく物語を構築し、かつてどの書き手も為し得なかった形式と、漢語と大和言葉との融和を図る文体を存分に駆使しなければならない、新境地だった。六十代に入ってまもなく、今ならそれが書けるという自信を得た。(日経新聞4/20/08)
四十代後半に狙いをつけた長編小説があった。テーマも構想も充分だったが、敢えて書かなかった。なぜなら、その大空を飛翔するだけの翼の力が具わっていないという自覚があったからだ。(日経新聞4/20/08)
「塞翁が馬」という故事がある。(略) このように人生の吉兆や禍福は簡単には定めがたいことを、述べたものである。私の場合もその通りで、当座は不運と見えたものが長い目でみると、むしろ幸運だったと思う場合が少くない。この年まで生きながらえると、人生は最後まで勝負の決まらないマラソンのようだとつくづく思う。(日経新聞5/1/08)
私は五十歳近くなって物書きになった。終列車の最後尾の車輌に飛び乗って、やっと間にあったという思いであったが、それも、考えようによっては、不利とばかりはいえなかった。(略) 柳田の弟子たちの間には、柳田批判を許さない雰囲気があった。(略) しかし時は氏神である。(略) その頃になると、柳田の威を借りた弟子たちの力もおとろえ、黙殺されることなく、かえって賞賛される始末であった。(日経新聞5/1/08)
才能を磨かず、才能を育てずして、注文のまま書きつづけていると、けっして卵や雛以上には成長せず、時間の問題で朽ち果ててしまうのは自明の理である。(日経新聞4/20/08)
こんな手はいけないという心理的なくびきがなくなり、新手に挑む気風が将棋界に広がっている。もう出ないと思っても新戦法は現れる。将棋は奥が深い。(日経新聞4/8/08)
タイトル戦を見て、これはいい手、これは悪い手、あーだこうだと言うのは楽しいのですが、集中度、真剣度が違う対局者の読みに勝てないことはわかっているので、虚しさも感じます。「負ける」という恐怖がある対局時と、気楽な観戦時では考える手や、感じ方が全然違ってくるので、仮に実戦より優る手を見つけたところで、あまり意味を持ちません。(渡辺明ブログ3/28/08)
国際的なコミュニケーションで大事なのは、意味がある言葉を話せるかということである。この基礎は母国語のなかでどれだけ「意味の含有率」が高い言葉を構成できるか、という能力にかかっている。(日経3/25/08)
序盤から読み合って、その都度折り合って、シーソーの水平を保っていたが、ここで均衡が崩れてしまった。水面下の押し引きで、時間も気力も体力も少しずつ削られ、正直バテた。藤井さんを含め、上位棋士の真の強さはこういう部分にあると思う。(日経3/19/08)
昨日の将棋、試しにボナンザ先生にお伺いをしたら、僕が間違えた局面2つで、先生はピタリと正解手を示されました。昨年3月の凄腕コンピューターではなく、家庭用パソコンでの先生の読みに負けているようでは、楽観うんぬんという問題ではないかもしれません。(渡辺明ブログ3/22/08)
険しさ自体に変わりはないが、その中にドラマティックな場面が出てきたりする。そういう意味では楽しいという感じがする。将棋は5、6手進んだだけで、思ってもみなかった展開に変わったりする。その面白さはずっと変わらずある。(将棋世界2008年3月号)
以前、数学者という職業の人は周囲の人から「大変ですね」と言われてもピンとこない、何故なら当人にとってそれは遊んでいるにすぎないから、という話を聞いたことがあるんですよ。それって少し羽生さんに通じるものがあるなと思いました。羽生さんも考えること自体が楽しくて仕方ないのではないか、と。(将棋世界2008年3月号)
数学的に可能な局面をすべて並べて、片っ端から形勢判断をしてくれと言われたら、かなりの確率で答えられると思いますよ。(中略) でもそれをわかっているとは言わないでしょうから。全然わかっていない局面でどのくらいわかっているのかと問われたら、全然わかっていないのかもしれない。局面自体を把握できれば、正解も見つけられると思うんですけど・・・。羅針盤がきくかどうかというのは、ものすごく大きいんですよね (将棋世界2008年3月号)
先入観をもたない、ということです。(中略) 先入観をもたないで見るのは、なかなか難しいんですよ。先入観をもってみるほうが簡単だし、楽だし、しかも効率がいいんです。でも、先入観をもたないということは、一番大切なことだと思っています。(中略) それは逆に、年齢を重ねれば重ねるほど難しくなります。邪魔するものがいっぱい出てきますから (将棋世界2008年3月号)
(羽生マジックについて) 私自身がどうこうということではなく、将棋は”最後までわからない”ということが大きいのではないかと思います。終わりに向かって可能性が小さくなるゲームでは逆転は少ないでしょうけど、将棋は、常に可能性は低くならない。その意味で、将棋には”最後までわからない”という要素がふんだんに含まれています。だから、私がやっているからということではなく、将棋はそういうゲームなんだ、ということだと思います。たとえば囲碁は、終わりに向かって可能性が低くなります。(将棋世界2008年3月号)

 

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