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finalventとは?/ アイフル

[ 494] finalventの日記
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/finalvent/

70年代までは、中卒・高卒が多かった。中卒なら泥のように働き10年後に嫁をもらうというか、10年が見えることで嫁をもらうみたいなものだったか。いずれにせよ、嫁がけっこう重要な附帯パラメーターだったように思う。
泥のように働けというのは、なかなか、含蓄があって、つまり泥のなかで働けという含みがある。娑婆な泥だらけだなあというの割り切りが10年かもしれない。
技術というのは、適正にもよるが、身につく能力だが、「泥」にしか根をもたない微妙なビジネス能力の部分はあるか。
話が横道にそれた。言いたいのは、来年1月に予定する株券電子化の後は、タンス株は株券としての効力がなくなるのでご用心ということだ。消費の県民性を探った本でお金の使い方が「全国平均的」とされた県は、なぜかタンス株主比率が高い。タンス株を埋もれたままにしないのは、全国平均的な課題である。
感染症の不安も消えていない。36万人以上の負傷者への治療は行き渡らず、家を失った500万人以上が必要とするテントなどは絶対数が足りない。ほかにも家族をなくした子供たちへの手当て、がれきに埋もれた放射性物質の回収、余震による被害など、問題は山積している。
日本は侵攻してきた敵を撃退するため、クラスター爆弾を防御手段としている。海岸線が長く、離島の多い日本にとって敵の上陸を食い止める有力な手段はほかにない。冷戦が過去のものとなった欧州などとは環境が異なる。
まあ定番としては、いったい誰が侵攻したと考えいるのか的な疑問でもあるだろうか。こういうのも勧進帳だな。
どの国も外国の軍事組織が入国することには神経質になるものだ。そして、中国の閉鎖的な体質は他国以上だ。その中国政府が自衛隊派遣を打診してきたのは、地震被害が予想を大きく上回っているからだろう。日本としてもこの期待に応えなければならない。
私はそういう議論ではなく、こうして自衛隊がなし崩しに、つまり法的な基礎が薄いまま、つまり憲法に成文法的な歯止めもなく、ずるずると性格を変えていくのはどうかと思う。そのあたりを、指摘する人も右派左派少なくなってきた。
日中両国は、小泉政権時代の「冷たい関係」を脱却し、今年から防衛交流も始まった。自衛隊の派遣は、儀礼的な交流を超えて、実質的な信頼醸成を一気に進める可能性もある。そして、両国関係の緊密化は、中国が日本をはじめとするアジア諸国と利害を共有する国家として国際社会に登場する環境整備ともなる。
日本は緊急食糧援助に加えて、「コメ生産を10年で倍増」の支援も表明した。日本が技術指導し、干ばつに強く収量も多いコメの生産を普及させることなどが、中長期的な農業の発展に寄与する。
これが難しいところだ。コメをどこまで臨むのか。コメと限らずGMOのほうが良いではないかなど(良いとはいえないという議論もあるだろう)。
社説を日々見ていると、何にどうびびって遅れるかネグルかという部分も読めるような気がする。まあ、気がするというだけか。
だが、そうした視聴者も今回の株に関する調査を見たら、がっかりするはずだ。こんなに脇が甘くては、政治家らに介入する口実を与え、報道の自由が揺らぎかねない。
これはユーモアの部類かな。「政治家らに介入する口実を与え」って安倍ボクちゃんのことを暗に差しているのだけど、これは朝日に分がないと思うが。
天気のせいというより気づかずに無茶をしていることがあるのか、疲労感でだるい。足はだいぶ軽くなったなとかいい気になるとろくなことはないか。精神も。

 

[ 495] 中二病とかだけど - finalventの日記
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080526/1211761455

率直に言うと、僕は、自分を中二病だと思っているけど、それって自分的にはごく普通のことなんじゃないかなとも思っている。
うまく言えないけど、僕は社会にすんなり適合できる人ではないし、でもそれなりに適合もできる人だったし、というか、自分の内面と社会は分けている人なんで、内面の側はけっこうそのまま。ただ、この日記とかに書いていることが内面のすべてではなくて、けっこう違う側面もある。うまく言葉に出来ないし、虚構というわけでもないけど、ネットのfinalventさんは、他のインタフェースとそうきちんと相似形でもない。まあ、僕のことなんかどうでもいいけど。
ネットを見ていると若い人が多いせいか、能力をアップして成功したいという人が多いのだろうと思うし、そういう成功の時、というまでの時間への確信や焦りもあるのだろうと思う。
なので、ディスカレッジなことを言うのもなんだしすでに言ってしまったけど、実際にはそういう成功に到達する人は少ないというか、その間に身の丈のあった成功やライフスタイルを見つけて生きていく。
普通に40代になれば、おっさんやおばさんになるもんだと思う。「普通」というのが微妙ではあるけど(いわゆる社会人という意味ではないけど、そう見えるというくらい)。
で、そういうとき、ちょっとこれも通じないかもしれないけど、自分の孤独や悩みというか中二病的な部分というのはけっこう存在のコアの大切な部分だと思うのだけど。つまり、おっさんやおばさんもナイーブな心をもって普通に生きていていいんじゃないのか。
最近ではあまり言われてないけど、ちんこはずるむけでもいいけど、なんか存在感までずるむけ感のある大人になることはないんじゃないか、というか、そこまで社会に屈服しなくてもいいんじゃないかと思う。自分の孤独や悩みみたいなものをそのまま大切にして生きていていいんじゃないのか? 大切なもんだと思うのだけど。
昆虫でも植物でもある種のタフさとある種の繊細さを持っていきているわけで、その繊細さの弱さを、これは僕が間違っているのかもしれないけど、捨てようとはしない。強者が生存するより、多様性への戦略のなかで、それぞれの生命が固有の繊細な美を大切にしているように思える。ある種の花なんか、その美がそのままその存在の悩みのようでもある。
世間を広く見ていると、そういうふうに美しい人は普通にいる。普通に苦しんでいる。普通に名もなく消えていく。でも、本人の側はそれでいいし、それしかないんじゃないかと思う。
さらっと読んだだけですが、そういう人結構多いと思いますよ。つーか、普通は違和感抱きながら生きるもんじゃないですかね。
自分もそういった人はかなりいると思います。以前タモリが年をとってから若い頃より憤りが増えたなんてことをいってましたが、中二的というか青年期的ナイーブさというのは普通のことのような気がしますね。自分を客観視できるなら中二病とはいわない、と思うんですけどね。

 

[ 496] 極東ブログ
[引用サイト]  http://finalvent.cocolog-nifty.com/

ブロガーのR30さん(参照)が久しぶりにエントリを書かれていて、しかも書評。良書らしいので、「グーグルに勝つ広告モデル マスメディアは必要か(岡本一郎)」(参照)を即ポチっと買って読んでみた。
グーグルに勝つ広告モデル 私の評価は微妙。悪い本ではないのだけど、あちこち変な感じがした。その変な感じがうまく焦点を結ばない。著者がお若いせいかあるいは知的なバックグラウンドのせいなのか。例えば、章末などに名言がちりばめられているのだが、違和感を感じる。あえて重箱の隅をつつくように書くが(失礼)、例えば。
間違いとまではいわない。が、筆者はこの言葉が懐奘によるものではなく、道元の言葉を懐奘がパーソナルに書き留めたことを知っているだろうか。つまりこれは道元の言葉だ。孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』とは、孤雲懐奘編『正法眼蔵随聞記』の意味だ。そして、この引用は岩波文庫に収録されている和辻哲郎校訂であることを知っているだろうか。これはその四の八の部分で、書き写しに一点誤りもあるというか、文語に「至って」がないことはケアレスミスかも知れないが編集者にも素養がなかったかもしれないなという疑念もある。和辻哲郎校訂の原典は江戸時代の改訂である面山本であり曹洞宗はこれを使っているし私もこのバージョンが好きだが、今日ではより原典に近い長円寺本が研究され、この部分も微妙に違っている。しかしそうした細かいこともだが、この道元の言葉がどのような文脈に置かれていているかを理解したうえで、地上波テレビ局の衰退の章に置いのだろうか。原典の文脈を外したコラージュということなのかもしれないとしても、あまりよい趣味とは言えないだろう。古典というのは半可通がもてあそぶものではないとまでは言えないが、それをちりばめるのではなくその知恵の本質を血肉に変えて自分の文章に織り込んでいけばいいのに。
CMスキップに対する対抗策として、番組中に広告商品を露出させる広告手法=プロダクトプレースメントは、なぜうまくいかないのか、という問いですが、これは「取引コストが高くなりすぎる」というのがその答えになります。
日本のテレビ広告市場は、年間2兆円を超えています。統計を見るとテレビ広告の一回の取引単価は0・2億円弱ですから、年間で10万回の取引をやっているということになります。
ということで、「取引コスト」は経済学の意味ではない。もちろん、こういう文脈で「取引コスト」を使うことが間違いとも言えないのだが、一瞬戸惑う。
マスメディアは非常に完全性が強い業界で、不完全なサービスをパイロットすることを非常に嫌がりますが、新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い顧客が数百万人単位でいるわけですから、これを活用しない手はないのではないでしょうか。
いちおうそういう側面からの提案も理解できないわけではないが、「新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い顧客」というとき、現実の娑婆では「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」といった放言が聞かれることを筆者は知っているだろうか。知っていて捨象したのだろうか。しかし、この娑婆の部分にこそ新聞社が抱える大きな問題があることは、新聞以外のメディアからはもう白日の下にさられているに等しい。というあたりの齟齬感は読者の意見が違うというべきなのか。
話が散漫になりぼやきばかりで申し訳ない。が、率直にあれ?と思ったことを続ける。例えば、クリエーターには、メディアの枠組みとコンテンツの両方を進化させる能力が問われるとして。
そう考えていくと、技術とコンテンツの組み合わせをどういうタイミングでリリースしていくのか、というのが、非常に重要な論点になってきます。
それは理解できるし、この先に、YouTubeが成功したのは技術的な条件が満たされるタイミングがj重要だとするのも理解できる。で、そこで、あれ?と思うのは、「6章 オンデマンドポイントキャスト事業の提言」で、テレビに対する視聴者のニーズは「タイムシフト」と「編成権」だとして、さらにかみ砕いて「見たいときに、見たいものを、見たい部分だけ、見たい」とし、さらに「とにかく前に動かす方向で議論を進めてほしい」「まずは始めてしまうことです」としているのだが、単純にオンデマンドは、先の技術の条件からすると、どのように技術的に成立するのか疑問に思える。インターネットは端的に言って無理だから、NGNが暗示されているのだろうか。そしてそれはNHKのようにさらなる有償モデルなのだろうか。
こうしたあれ?あれ?というのが積み重なってふと気が付くと、本書の全体も見えづらくなり、大枠にも、あれ?という印象が深まる。例えば、テレビ、新聞、雑誌、ラジオといったマスメディアはアテンションを卸売りするモデルであり、ヤフーもそうだが、グーグルはインタレストを卸売りするモデルだというあたりだが、まったく理解でないわけでもないだが、それが書名の「グーグルに勝つ広告モデル」というコンプトとどう整合するのか。単純に考えれば、日本の広告業界ないしマスメディアが、グーグルのインタレスト卸売りモデルを超える可能性として理解できるだろうし、広告の打ち方のターゲットを絞れとしているのはその一環でもあるのだろうが、具体的にどうグーグルを超える広告モデルができるのかは見えない。そのうちに、マスメディアの存続に話題が流れていくようにも見える。
マスメディアの例として新聞の存続では、インターネットの対比から、新聞では「オピニオン軸での差別化」や「マイクロエリア/嗜好(しこう)軸での差別化」が出るのだが、ここでも、「あれ? それはむしろブログやSNSのほうが強いのではないか。そしてだからこそ、グーグルは検索エンジンにブログへのバイアスを高め、そしてSNSへの追撃を狙っているのではないか」などと疑問が湧く。
さらにグーグルが語られているわりにそれを含んだ昨今のグローバルな広告の問題には触れていないように見える。あえて触れていないのだろうか。
オンデマンドポイントキャストは通信を用いますから、クライアントごとにダイナミックにコンテンツを切り替えることが、技術的には可能になります。この特性を利用して、視聴者一人ひとりのプロファイルに基づいたターゲッティング動画広告を展開かできないか、というのが、筆者の考え方です。
という考えがこそ、このグーグルがこの一年EUで起こしたすったもんだに深く関わっていた。結局グーグルはその逆にプライバシー強化として市場を安定させる方向で進もうとしている。
最後にもう一点、私はメディアはむしろ人に従属すると見て、そこからマスメディアや、マイクロトレンド的な視点を持つほうがよいのではないかと思う(というか本書の大半はマイクロトレンドで解けるようにも思えた)。そうすれば、セブンイレブンの商品棚もメディアとして扱えるだろうし、具体的に新聞などについては、戸配よりもセブンイレブンに吸収させてしまうほうがいいだろうといった視点も開ける。つまり、セブンイレブンのようなコミュニティ的な場そのもの(SNSなども含めて)が、広告対象のピンポイントメディアになりつつあると考えている。
コメを輸入する必要などないと、多くの日本の政治家は考えている。実際、昨年の国内の収穫高は国内の需要を大幅に上回った。コメ生産農家を国際競争から守るのは、自民党が長年貫いてきたポリシーだ。
輸入米は何年でも倉庫で寝かされることが多い。その後で加工用に使われたり、援助食糧として外国に送られたり、家畜の飼料になったりする。
日本がコメを輸入する理由はただ一つ。WTO(世界貿易機関)の言うことを聞かなければならないからだ。93年に妥結した農業交渉で、日本は年間の国内コメ消費量の4〜7・2%を輸入しなければならなくなった。
「自由貿易の番人」であるWTOに言わせれば、日本がコメ市場を開放するのは当然のことだ。日本と韓国は農家を手厚く保護しているため、消費者は主食の米を世界の平均より3〜4倍も高い価格で買わされている。こうした閉鎖的な政策により、途上国の農家は日本のコメ市場に参入できず、貧困が解消されにくい状況になっている……。
だが、ようやく開放された日本の市場でコメを売って大きな儲けを得たのは、米政府から手厚い保護を受けているカリフォルニア州のコメ生産者だった。
95年以降、日本の輸入米のざっと半分をカリフォルニア米が占めている。同時期にカリフォルニアのコメ農家に米政府が与えた補助金は20億ドルに登る。
知っている人には知っているごく当たり前のことなんだけど、意外に知らない人もいるかもしれない些細な逸話といった感じ。いや、つまりこれがアジアの貧困の要因の一つでもある。
ニューズウィークはさらに途上国側の農政の問題を挙げるが、これは「極東ブログ: コメ急騰問題メモ」(参照)とそれほど変わらない。のでそこは省略。
マイク・ムーアWTO元事務局長は新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の早期妥結を訴える。妥結すれば、13年までに農産物の輸出補助金が打ち切られることになるだろう。
それによりアフリカが受ける経済的な恩恵は「債務経済と開発援助をすべて合わせた金額の4〜5倍にのぼる」と、ムーアはみる。
自由貿易を緩和するほうがナンボか援助になるはずだが、あまりそういう議論は聞かないというか、聞かないわけもないけど、なんとく別の話が喧しい。
EUは近年、90年代には150億ユーロだった輸出補助金を減らしており、昨年は30億ユーロを切った。だが食糧危機を解決するには、世界各国がもっと大胆な変革に乗り出す必要がある。
(世界の商品市場の価格上昇で、食料価格高騰による米農政が問題になっている。特にエタノール生産への補助金が問題だ。批判は当然だ。しかし、米国は非理性的な食糧政策を独占しているわけではない。日本のコメの山を考えよ。)
ということでちょいと日本の内情に色目を使ったあと(そりゃね)、日本のコメを巡る状況に触れて、こう来る。
(気が狂っている。コメの価格は最近やや下げてきたが、コメの価格は年初に比べて75%も上がり、フィリピンや他の地域に問題を起こしている。)
(日本は援助ができるはずだ。輸入米の山は今や150万トンある。現状の消費ならこの量は向こう一年2450万人を十分食わせることができる。日本人がそれを食いたくないなら、多国民が味わうことができるはずだ。動物の餌にしたり、愚かしいエタノールに転換する代わりに、日本人はそれを国際市場に放出すべきだ。それだけでは価格を下げることにはならないだろうが、他国の輸出規制維持は切り崩せるかもしれない。過去において日本に対して国内消費に輸入米を回せと米国は主張したが、東南アジアの諸国民に欠乏がある現在、米国は反対すべきではない。富裕な日本にとって世界買いだめナンバー1になることは誰のためにもならない。)
そりゃなというのが19日のこと。日本政府はワシントンポストが言うほど気が狂っているわけでもないし、米国もそうなので、事態はやや好転した。
日米両政府は23日、市場価格の高騰でアジアを中心に不足感が強まっているコメの国際需給について、米農務省で対応策を協議した。日本はフィリピンからの要請を受け、同国に対し、主に米国から義務的に輸入・保管している「ミニマムアクセス(MA)米」から20万トンを提供する方向で検討している状況を説明。米側は「日本の取り組みを支持する」とし、容認する考えを表明した。
米国が「容認」というのは、ワシントンポストが触れているように、それお前ら食えとか言っていた手前があるからだ。日本としても、米国様の顔色をうかがうと。24日付け朝日新聞”フィリピンへのコメ支援、米国からの輸入米でも容認”(参照)はそこも補足している。
協議の対象は93年のウルグアイ・ラウンド合意で日本が輸入を義務づけられた「ミニマムアクセス米」。年間輸入量約77万トンのうち米国産が5割程度を占める。米側はこれまで「輸入米は日本国内で消費されるべきだ」と主張してきたが、人道支援目的に限って容認する方針に転換した。米議会などからも日本などに対し、国内産も含めた備蓄米の放出を求める声が出始めていた。
ただし、備蓄されているこれらの輸入義務米を国外に売却するためには、日本は輸出国の承認を必要とする。
いずれにせよ、20万トンを放出。ワシントンポストが触れたように各国の規制への緩和的効果はあっても目下の食糧危機にはあまり効果はない。AFPの説明は正しいだろう。
(日本政府に賞賛を送りたい。私たちは先日米国米の大量の備蓄のかなりの部分を売却するか供与せよとしたことゆえにだ。)
このあと、ワシントンポストはブッシュ大統領にも賞賛を送っている。私はこういう米人のさっぱりとしたところが好きだな。
ワシントンポストによれば20万トンは想定した効果はあったようだ。そして、もっと放出せよという。私もそう思う。
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[ 497] 極東ブログ: [書評]いつまでもデブと思うなよ(岡田斗司夫)
[引用サイト]  http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/08/post_1ac4.html

いつまでもデブと思うなよ岡田斗司夫 彼の減量ミラクルについてはすでにネットでも話題らしく、そのレコーディング・ダイエットも各所で実践されているようで、成果もあると聞くが、とか書いたわりに私は実態をよく知らない。書籍としては、1章の「「見た目主義社会」の到来」はいろいろ頷くところがあった。ある意味でいつの時代でも人間の評価なんか見た目だし、作家とか哲学者とかも、見た目ですよ。ただ、岡田の指摘はそういう単純な見た目というより、見た目の最初のラベリングによってその意味ネットワークが先行してその人の評価を決めてしまうというあたりの指摘が、私などにはなるほどなと思った。彼は「キャラ」と言っている。
たとえば、つい一年前まで一一七キロと思い切り太っていた私は、「デブ」というキャラにまず、あてはめられていた。見た目で、私が他人と圧倒的に違うのは「太っている」という要素だったので、当然だろう。が、今考えると恐ろしいことに、私はその意味を自覚していなかった。
もちろん、自分が太っているのは知っていた。が、たったそれだけの理由で、私に対する評価が、まず「太っているヤツ」であり、自動的に「大食い」「だらしない」「明るいけどバカ」「人付き合いが下手」……などのイメージをあてはめられてしまう、とは考えてもみなかったのだ。
つまり、今の日本の世の中、見た目でキャラが決まるとキャラの属性が、対象の属性を覆ってしまうわけですよ。それが現実でしょと彼は言う。
2章は各種ダイエットの議論があり、このあたりはダイエット・マニアには面白いのではないか。私はこの分野を知らないのでへぇと思った。
3章からいよいよ奇跡のレコーディング・ダイエットの実践マニュアルということになるのだが、なんというのだろう、私にはそれほどリアリティが感じられなかった。というか、ゲームのシナリオみたいだなと思った。もちろん、それが面白いには面白いし、ある意味で、シーク&ファインドの小説風でもある。
さて、これを言うのを少しためらうのだが、このレコーディング・ダイエットだが、とても理詰めに書かれているけど、これこそ偽科学というか似非科学の代表で、とかいうと批判みたいだけど批判の意図はなく、まあそういうもんだということ。科学的であるためには、もっとデータがないとダメ。また、識者の評価なども含めないといけない。その意味で、このダイエットをマジで実践する人がいたら、そのあたりは科学的に考えたほうがいい。あるいは科学者がこれをサポートしてあげるといいだろう。
私の印象だと、このダイエットは170cm100kgの人が80kgまでは減量すると思う。本書の段階でいうと、「離陸」「上昇」まではいけるとだろう。だが、そこまでで限界になる人が多そうだ。といことで、その限界からさらに下げたい世の中年男性のメタボ予備軍に効果的かは疑問に思えた。理由は、本書の文学的なクライマックスに関係する。減量が一定のペースで「巡航」する段階のことだ。
こんな時期、突然というか発作的に激しい飢餓感に襲われた。毎日一度ぐらい、空腹と落ち込みの感情が同時に、強烈に襲ってくるようになったのだ。
考えてみれば当たり前で、簡単に減らすことができる内臓脂肪もすっかり底をついてしまい、渋々、皮下脂肪を燃やし始めた体は、(勝手に!)生命の危機を感じ始めているらしい。やせようとする私の意志や行動を、あらゆる方法で妨害してくる。
その飢餓感の問題はまだ医学的に十分説明が付かないだろうと思うが、お酒やたばこの禁断症状については、現状ではメディケーションの対象でないと危ない。
今までなら、楽しくカロリーチェックをしたコンビニのお菓子棚も、「これも、これも、これも食べられない。もう一生、食べられないんじゃないだろうか。ここに売っているほとんどのものが一生食べられないなんて、こんなんで、生きている意味があるんだろうか」と見ているだけで泣きたくなってくる。
いや、大げさな話ではない。私は本当に深夜営業のスーパーで、それも菓子パンの棚の前で泣いたことがある。
この要所を抜けた人がこのダイエットに成功するのだろうし、岡田もそれがよくわかっていていろいろサジェスチョンを投げている。本書で一番の要所かもしれない。もう一つ要所は、レコーディング・ダイエットの「助走」にあり、たぶんそれは自己認識という問題になる。このスーパーで泣き出す中年男の情けなさは私もこのシーンではないが類似の経験があり、自己認識の核に関連する。自己認識の核というのは無意識、つまり身体性に潜んでいてその露出は非常に危機的な力を持つ。
この最大の難所の説明あたりから、本書のトーンは、多少宗教家の説教ぽくなっている印象を受ける。レコーディング・ダイエットへの批判に対して。
もちろん本の読み方など自由だ。しかし、効率よく失敗なくやせるためには、段階があり、段階ごとに慎重に進む方がいい。「欲望」と「欲求」の話を聞いてもピンと来なければ、この章の続きを読むよりまずは「助走」「離陸」の段階を実際に経験してほしい。
くどいが、それが批判ということではない。そのように語られるべき自己認識の内実と、身体性という見た目による社会のインタフェースの問題が、本書で、奇妙な形でくっきりと露出していることが面白い。
噂に聞くところでは岡田はこれから筋トレというかターザン系の世界にも進むらしい。そういえば三島由紀夫もそうだったかなとかちょっと思い出したが、三島ケースとはまったく違った、次のエポックを岡田は切り開いてくれそうだ(中村うさぎのように)。
極端に痩せることが脅威というより、そこまで「太れる」ことのほうがよっぽど脅威でしょ。私、標準体型〜やや痩せ気味ですけど、10kg太っただけで毎日が気持ち悪くなりますけどね。体が重いとか気分が悪いとか頭がボーっとするとか。そういう状況を通り越して100kgだの120kgだの逝けてしまうのも凄いといえば凄いですけど、そこまで逝っちゃった自分を嫌ったり体調不良を理由に痩せようとすること自体、自己管理トコトンなっちゃいねぇ、でしかないんじゃないかと思うんですけど。
デブでも何でも別に困りはしないんだったら、世相に流されて無理に痩せなくてもいいと思うんですけどね。ダイエットしてる馬鹿が傍で騒ぐと鬱陶しいことこの上ないんで。
自己管理に至る道及び、太っていることで存する社会的背景を客観的に説明している本への批判としては、著しく的外れ。
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