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短信とは?/ プロミス

[ 175] 短信
[引用サイト]  http://tanshin.cocolog-nifty.com/

ぼくのゼミ生の女の子の故郷も震源から50-60kmの近傍であり、ご両親の消息はまだ分からない。おばあさんが小学校に避難していることだけは分かったが、その他の親戚の消息もわからない。もちろん電話もメールも通じない。ボランティアで現地入りできるのなら、今すぐにでも参加したいと言っていたが、武装警察と軍、少数の中国人ボランティア以外、外国からの人的支援はなかなか受け入れ態勢が整わない。とりあえず、募金はできるし、お金なら何とか支援できるが、生き埋めになっている人の救出の時間的期限が迫っているのにもどかしい。それでも今回の台湾人の同胞に対する迅速な支援には驚いた。総選挙以来の大きな事件だからということもあるだろうけどね。震源地がチベット族の自治区であったということもあり、中国をめぐって、ここから何か大きな変化が起ころうとしているのかもしれない。
今回は河田学君に企画を任せていたのだが、なかなかまとまらず、四月の初めに日帰りで京都に行き、急遽決めたのが初日の企画、
遍在するフィクショナリティということから、携帯小説やblog小説、BLなどを扱おうということになり、「腐女子」に詳しい清田友則君に電話で相談。『やおい小説論』の著者である永久保陽子さんを迎えて、BLや腐女子についてのセッションをやることにした。基本的には永久保さんに30分くらいレクチャーしてもらって、清田君といろいろ事前に準備したことを永久保さんとの一問一答形式で進めて行こうという話だったのだが、結局永久保さんは10分程度で話をやめてしまい、あとは手探りで話を展開していく「メディア基礎論」スタイルになった。これはこれでスリリングで面白かったのだが、会場の一部には不評。「シンポジウム」というジャンルを「お約束通り」やって欲しかったらしい。お約束通りのシンポジウム程退屈なものはないのに‥‥。もちろん、清田君の特異な個性もあり、別な一部にはきわめて好評。手を打って面白がってくれる人たちも沢山居た。これほど正反対の評価が出てくるセッションも珍しく、その意味では最初から荒れ模様だったのだ。
BL(boy's love)と呼ばれる男性同士の性愛を描いた漫画や小説は、「腐女子」と呼ばれるオタク系女性たちに幅広い人気を得ており、いまや一般書店で独立した大きなコーナーをもつほど「一般的」なジャンルになっている。これらは基本的には少女漫画の伝統を受け継ぐ心理小説的「純愛物」スタイルを持ちながらも、過激なセックスシーンを含む倒錯したポルノグラフィなのだが、驚く程パターン化されている。消費者である「腐女子」たちはそのパターンを楽しみながら、密かに自らの抑圧された性衝動を発散させている。
永久保さんの説明するストーリーは、「抑圧された女性たちの性欲を満たす、女性のためのポルノグラフィを試行錯誤で作り上げている、女性による女性のためのセクシュアリティの解放」こそがBLであり、その視点から「作品研究」を積み重ねて行くことが重要であるというもの。
それに対して、ぼくの思惑は、このようなストーリーこそが「フィクショナリティ」であり、そうしたフィクショナリティが一般化され、「有力な商品」として消費の欲望の対象になってしまうという現代的な状況を記号論的に暴き出せないかということだった。確かに以前の「やおい」の女の子たちは複雑な性意識を投影しており、そこには何かしら日の当たるところには出せないうしろめたさのようなものがあったに違いない。だが、現在のあまりにメジャーになった「BL」の愛好家たちはもはやそのような背徳的な暗さとは無縁に、一般に認知された商品としてあけすけにそれを消費しているようにしか思えない。オタクやコスプレに関しても同じようなことが言える。この変化は一体なんなのだろうか?
一方で、清田君の作り出そうとしたストーリーは、自らのセクシュアリティやジェンダーをこのような屈折した回路に注ぎ込んで行く「腐女子」たちの中に、セクシュアリティ一般の向かう方向を見出していけないかというようなものだった。この流れで言えば、すべての「女子」ばかりではなく、すべての「人間」は腐女子を目指しているということになる。そして、そこにはファロス中心主義やゲイ、レズビアン、クイアなどに関するこれまでの議論を超えていく、人間の自らのセクシュアリティとの関わり方を解く鍵があるかもしれないという期待もこめられている。
しかし、話がそうした抽象的な局面に移行しようとすると、永久保さんの顔が曇り、「BLと腐女子の話に戻して下さい」というようなことになる。彼女がついてこなければこのセッション自体が成り立たなくなるので、またその平面まで降りて行って、腐女子たちのセクシュアリティの話に戻る。その繰り返しで、いくつもの面白くなりそうなトピックが中途半端な展開のまま置き去りになってしまった。前半では、セクシュアリティこそがフィクションだ。もしくはセクシュアリティを作り上げているのがフィクションだ、というような事が浮かび上がってきて面白くなりそうだったのだが、なかなかその先に進めない。
休憩後、フロアに質問をしてもらう段階になってくすぶっていた対立が前景化してきた。この手のイベントには異様な程、多数の挙手があったのだ。チラシに惹かれて集まったオタクと腐女子、及びそのシンパたちの大群である。今回は無料で入場できるようになっている(プログラムが欲しい人は二日間の参加費込みで1500円)。しかも、それらの質問者たちの大半は学会員ではなく、永久保さんに(だけ)、BLのジャンル論や重要作家を訊ねてくるといった「データベース型消費」者たちの群れだったのだ。要するに、私もBLが好きである、BL以外のオタクだが、BLの魅力について関心がある、BLと他のサブカルチャーとのジャンル的な相違について、というような質問ばかり続く。中には、永久保さんの話(だけ)を聞きたかったのに、オジサン二人が遮るので駄目なシンポジウムだったと指摘する人まで現われ、失望と怒りが募ってきた。まあ、スーパーマーケットの人気商品の売り場でその商品の悪口を言っているようなものだから、ある意味当然の帰結だったのだ。次から次へとその手のオタク質問が続き、永久保さんもその方が安心するのか、セッション中の途切れ途切れの話し方から一変して澱みなくしゃべり出すようになって、さらに会場からは沢山の手が上げられるようになった。このまま終わらせたのでは、今回の学会の企画意図が完全に潰されると思ったため、こちらからキレて、質問を封じるという実力行使に出ることにした。
そこからは、ネットでの「炎上」のような混乱が。突然会場から学会とは何の関係もない学部学生が立ち上がり司会者の横暴をなじり、室井さんたちは全く面白くなかった。面白かったと思う人、手を挙げてくださいと言いだし、それに便乗して不規則発言する人も出てくる。
ぼくは、ここは記号学会である。みんなが同じ価値観を共有したり、スーパーマーケットの商品コーナーにそれが好きな人が集まって情報交換したりするようなことではなくて、異なる価値観、異なる専門領域を持つ人たちが境界を越えて行こうとする場なのだ。ぼくたちがこのセッションで試みたのもそれであり、そうではないオタク・トークはどっかよそでやってくれというようなことを言ったのだが、明らかに全くそれが通じない人たちがいたし、その一部は次の日のパネリストであった。こういう風景は見覚えがある。タバコの話の時にわさわさと群がってきたネット嫌煙運動家たちとそっくりだ。
ただ、面白いことにその後のパーティでも、二次会でも、むしろぼくたちに共感し支持してくれる若い人たちが多数集まってきてくれたのは心強かった。ある意味、衝突を作り出すことで問題点がかえってくっきりと浮き上がってきたとも言える。また、この手のデータベース型消費者は実は心に深い不安感を抱いていて、同時にフロイトやラカンを読みふけっている者も多く、ひとりひとりきちんと話してみればちゃんと話が通じるのだ。ただ、そのまま四十代前後までなってしまった団塊ジュニア世代の大学教員はもはや話が完全に通じなくなっている。
では、物を作り出す側の作家である奥泉さんと、二人のデータベース型消費者の対比が浮き彫りになってくる。プロットとキャラのデータベースからフィクションのジャンル論を語る二人に対して、作り手の奥泉さんは、「物を書くということは、それだけには留まらないsomthing else があって、それは書いてみないと分からない」と言う。すると、それは直ちに「そのsomething elseというのは、ノリとかグルーヴ感とかいうものですよね?」と、消費者から見た商品特性に変換される。この唖然としてしまうような取り違えには誰も気づかないまま、物を作る側とそれを消費するだけの側とのすれ違いは最後まで続いていく。「奥泉さんの小説を読んで泣いたんです。泣き要素というのは、萌え要素と比べて数は少ないんですが、奥泉さんはそれをちゃんと押さえて書いている」というような発言。読者が泣くのは感動するからではなくて、きちんと泣き要素を取り込んだ優秀な商品だからだと言いたいようだ。自分に充分な「快楽」を与えてくれる商品としてしか「文学」や「芸術」もありえない。そこではサブカルチャーも伝統文学もすべてゲームの規則を備えたデータベースの項目、消費者に個別的で多様なニーズに応えた快楽をもたらしてくれるグローバル・スーパーマーケットに並べられた商品として等価である。データベースの無時間性が、この終わらないワンダーランドを支えてくれている。この、もはやアイロニーとも呼べない程のどうしようもないニヒリズム。フロアからも、オタク的知識をひけらかし、2ch的に「おまいら、まだまだだな」というようなことを言いたがる質問者が次々現われ、もはやあきらめた。「データベース型消費」者たちは気づかないうちにこんなに増殖していたのだ。東浩紀の影響力は思っていた以上に凄い。BLや「ラノベ」の「ユーザー」が蔓延していくわけだ。
物心がついた頃からネットで育っている世代にとって、世界とはこのようなグローバル・スーパーマーケットに他ならず、生きるとはその中でもっとも自分に快楽を与えてくれる商品やジャンルを選択し、その中で遊ぶことにすぎない。「データベース型消費」の快楽に浸り込む人々は確かに増えてきているし、彼らはこの「窒息感」をネットやコミュニティの中で共同化することによって乗り越えようとしている。だが、それでもぼくたちはスーパーマーケットの「外部」やデータベースやジャンルの規則には取り込めないものがあることにこだわりつづけなくてはならないと改めて思うのだ。全く話の脈絡や構図を理解できずに、その日の晩のうちにぼくたちのシンポジウムのとんでもなく見当はずれな悪口を書き散らしている「ユーザー」たちのblogや日記を見て、情報社会は新しいタイプの心の牢獄を作り出しているのではないかと思った。本当に外部どころではなく、隣の商品コーナー(「関心領域」と名付けられる)すら見ようとしていない「ネットワーク化された心の巨大な閉域」が生まれつつある。
学会とは共感の輪を広げたり、自己正当化を相互確認するような場ではなく、ひとつの場所に人が集まることによって新しいことが生まれてくる場所でなくてはならない(キャリア作りやポストを配分する既成の学会と日本記号学会とでは全く違うけれども)。その意味では衝突と対立を生み出した今回の学会はけっして無駄にはならないだろう(各セッションのつながりや内容は本当に情けないほどバラバラになってしまったけれども)。というわけで、次の本にはこの経験から得たものを取り入れて行きたいと思う。
会場には先週も唐組でご一緒してから、少し元気になられた山口昌男さん、久しぶりに来られた脇坂豊さん、松島征さんらの顔も見えた。山口さんは久しぶりにカッとなったぼくを愉快そうにからかって楽しんでいた。永久保さんに歴史的な文学の系譜やさまざまな文学理論の視点からBL研究に取り組んだらと助言されていたのも、いかにも山口さんらしい。
連日、沢山の友人や若い大学院生たちと飲み会で盛り上がり、最終の新幹線で東海大学の水島久光さんとビールを飲みながら帰った。来年の記号学会は東海大学で開かれる。
今回は芸術館でもいろいろと考えてくれて、お揃いのTシャツ、ビデオ上映やトークショーなど、これまでと違った企画でやる
今回はそうやって船便で戻って来たこいつの検品も兼ねた展示で、場合によっては大修理を行うことになるかもしれない。
そんなこんなで、今回も水戸のボランティアの方にお世話になるわけだが、どうも今回集まりが悪いらしい。締切は過ぎているけど、まだまだ募集しているので是非ご参加下さい。今回は椿昇デザインの特製Tシャツのプレゼントもあります。
ぼくは三日間ずっと現場にいるので、是非声をかけて下さい。天気が良ければきっと素晴らしい気分転換ができると思います。
それから、その翌週10-11日の日本記号学会大会のプログラムが固まった。今回は京都大学で「遍在するフィクショナリティ」というテーマで行われる。近くの人は是非ご参加下さい。どなたでも入場できます。
チアリさんには80年代後半から90年代前半までとてもお世話になった。この64年に「夜霧の忍び逢い」が世界的に大ヒットしたギタリストは毎年の日本ツアーで知り合った神戸の女性と結婚し、日本に帰化し、関西を中心にタレント、音楽家として活躍していた。
当時の主流だったNECの9801シリーズはIBM-PCとの互換性がなく標準OSもMS-DOSではなかったのだが、チアリSIGにはプログラマーたちが徐々に集い、オンラインでソフトウェアを開発する動きが加速された。日本初のオンライン・ソフトウェア運動だったのである。ここはよくも悪くもチアリさんの個性によって彩られたコミュニティだった。規模としてはNiftyのソフトウェア・フォーラムには敵わなかったが、チアリさんの人柄に惹かれた多くの人が集う巨大な広場になっていった。
ぼくもここでいくつかのフリーウェアを共同で制作したり、何と言ってもIBM-PCのソフトを98で動かすことのできるエミュレータ「SIM」というきわめて重要なソフトのプロデュースをお手伝いすることができ、それは日本のソフトウェア文化に大きな影響を与えることになる。この頃はパソコン雑誌によく原稿を書いていた。
ただ、初めて体験するオンラインのコミュニティのスピードはもの凄く、急速に親しくなって行く人がいると共に、急速に行き違いが起こって対立や誤解が生まれたり、派閥抗争が起こったりもしていた。それをまとめたのは親分肌のチアリさんの人徳によるものが大きい。
だが、それも93年?94年頃に起きた内部の対立で、ずっと心を許してつき合って来た人たちとの離反が次々に起こり、ぼくもチアリさんもうんざりするようになってしまい、自然にぼくはSIGOPを止め、チアリSIGも自然に消滅して行った。今になって考えてみるとあの時の対立は、90年代のITビジネス型の文化とハッカー的なアマチュア文化の対立だったような気もする。ギタリストになる前にIBMの大型コンピュータの技師の経験もあったチアリさんにとって、コンピュータはいつまでも夢の玩具だったように思われる。そして時代は進み、インターネットの時代になりPC-VANも終わり、Biglobeは単なるプロバイダになってしまった。
それから14,5年。チアリSIGの黄金期からは約20年が経過した。今回は六本木でのコンサートに奥様からのお招きを受け顔を出した。チアリさんは少し肥った以外は前と変わらず。昔まだ小さかった二人の子供はもう結婚している。二時間近くの演奏を終えた会場にはぼくたちよりも更に古くからの客たちが沢山詰めかけており、チアリさんを囲んでいるので、簡単に挨拶をして握手をし、外国人たちと若者が群がる六本木の町へと退出していった。
それはネットワークにパソコンをつないでいた人が、多分全部合わせてもまだ一万人も居なかった時代の話だ。その頃、このイタリア系=ウクライナ系の南仏生まれのフランス人ギタリストが日本のネット文化の基礎を築き上げたことを記憶から消してはならないと思うし、また自分がその運動に関われたことを改めて誇りに思う。
この期間にずっと温めている原稿を進めることができる予定だったのだが、結局は入試が終わってようやくと思った17日にまた父が緊急入院。今度は三泊四日の沖縄旅行の疲れが出て急性肺炎で呼吸困難になり救急車で運ばれた。またしても、処置が早かったおかげで二週間で完治。入院期間中に今度は母が軽度ではあるが肺炎に感染してしまい、結局はそのケアに忙殺された。なかなか思うようにはいかないものだ。
26日には卒業式。27日は日本記号学会の理事会と続き、疲れ気味。このまま今週からは新学年が始まってしまう。今年は全学の教務委員長なので入学式にも顔を出さなくてはならない。いつのまにか桜も満開、また新しい春が始まる。
26日、成田から韓国・全州に向かった。だいたい2005年の夏に初めて全州に行った時と同じようなスケジュール。とにかく全州は遠い。
とは言え、仁川空港からの高速バスはソウルの中心部を避けて通るルートに変わっていて、渋滞もなく休憩も無く3時間ちょっとで到着してしまった。今回、携帯電話を持って行ったのだが、仁川では通話できたのに全州ではつながらない。なぜかメールだけは通じる。これは最後までずっとそうだった。夜になると流石に寒さが身にしみ、コアホテルのロビーに逃げ込み、メールで到着を伝えると椎野と韓国人キャストの一人が車でやってきた。車の中で立派なパンフレット兼ポスターとチケットを見せてもらった。彼らは全員でこのポスターを全州の町中に張りに行ったらしい。
とりあえず歓迎会ということで、サムギョプサルを食べに町に出る。朴炳棹教授はみるからに体調が悪く、去年の初夏からずっと具合が悪いという。無理をせずに飲まないで早く寝てくれと言うが、この日のために体調を整えて来たのだから大丈夫となかなか帰らない。ぼくも今日は早く帰るからと言って11:00頃には終わらせたが、他のメンバーは照明稽古のためにまたホールに戻っていった。前日から、最初に日本に来た時のメンバーであり、現在はソリ文化センターの照明技師になっているキム・ドンファンが徹夜で照明の仕込みをしていて、結局全員で朝方まで照明稽古をすることになったらしい。翌朝、タクシーでホールに行くと日本組全員がまだ装置の手直しをしていた。中野が、あいつら軍隊に行っているといっても、全然根性ないですよ、と傲然と言い放つのがおかしい。そのまま10:00からはメイクさんが来て、三時間もかけて全員のメイクアップ、その間に弁当を取る。予定より遅れて3:00からゲネプロ。当然のように色々な問題が出てきて、6:30の開場時間ギリギリまで手直しに時間がかかった。
ぼくはと言えば、春休み中で学生たちの姿がほとんど見えないキャンパスで、本当に客が来るのかどうかとじりじり外を見ていた。それは本番前にようやく顔を見せた朴炳棹も同じらしく、じりじりしながらロビーに立ち尽くしている。以前に日本にも来たなつかしい卒業生たちや、入学が決まったばかりの新入生、演劇科の先生たちや学部長らが顔を出してくれるが、400席ほどあるホールに70人程度しか集まらない。遅刻者を入れると100人弱にはなったようだが、それでも広いホールを埋めるには全然足りない。どうやら、日本も2月で年度が終わる韓国と同じで2月中にやらないと助成金が使えないと思っていたようだが、こんなことなら一、二週間伸ばしても良かったのにと思う。こんなことにも異文化コミュニケーションの難しさがあったわけだ。朴炳棹が元気がなかったにしろ、それにしても韓国人学生たちの制作能力の低さにも少し腹が立つ。分業システムが徹底していて、彼らは役者以外の仕事に全く関心もなければ、熱意ももたないのである。
芝居はと言えば、基本的には新国立劇場での唐ゼミのと同じだが、韓国語の台詞や韓国人俳優のきびきびした演技、日本とは色調の違う照明やメイクなど新鮮な感じがした。とりわけ、婦警サカリノ(韓国版ではヤシ)、タダハル役はとても良く、またパク・サンジュンのやった「先生」やフーテン少年もかなり頑張っていた。全体的にはかなり完成度が高かったのだが、リュウ・ソンモクのやった「破里夫」とパク・ダヨンの「銀杏」は少し重かったかもしれない。キャスティングは向こうの指定なので、二人ともとてもまじめに頑張ったのだが、やや彼らには荷が重かった部分もあった。また、擂り鉢形の幅と高さが大きなホールでの中野敦之の演出にもやや不慣れな部分が多く、とりわけエンディングの展開は少し厳しいところもあった。ただ、それは何度もこれを見ているぼくの感想であり、初めて見る観客たちはそれなりのインパクトを受けたようだ。終わった後、すぐにバラシに入る彼らを残して、大人のゲストだけで朴研究室で話をしたが、どの人も大きなインパクトを受けたようで、質問攻めにあった。また地元の新聞社の記者も来てくれて翌日大きな記事にもなった。さらに11過ぎに片付けを終えたメンバーと前回「ユニコン物語」を上演した大練習室で打上げ。みんな弾けまくっていた。この日もぼくが帰らないと朴炳棹が帰ろうとしないので、名残惜しく1:00にホテルに戻る。結局残った奴らは3:00から4:00、そのまま床で寝た者もいれば、最終居残り組は5:00過ぎまで飲んでいたらしい。
次の日は轟沈したメンバーを残し、中野と二人で名物のもやしクッパを食べに出て、中心部を散歩する。中野は食べ物に対する天才的な執着心を持っていて、前回ごちそうしてもらった全州一のビビンパ店を自力で見つけ出し、結局昼過ぎに起き出した日本人、韓国人合流組15人で再び全州ビビンパを食べる。ここの店は真鍮の器にいろいろな野菜が入った繊細で極上のビビンパを出してくれる。それを堪能したあと、王宮を見学し、全羅北道南部の春香のテーマパークへ。これは韓国に伝わる春香伝説の場所だったらしいが、要するに観光用のテーマパークだ。そこから戻るとまた朴炳棹のおごりで韓定食。余りに彼の調子が良くなさそうなので、帰るふりをして朴炳棹だけ家に帰して、また大練習室へ。そこで「盲導犬」のことや今回の舞台についてソンモクやダヨンと話し込む。彼らにとっても今回のイベントは大きな印象を残したことがわかり、やった意味があったと思った。
全州最終日はまたしてももやしクッパ。昨日とは違ったスタイルで更にうまい。そこから大学に戻り荷造りをし、朴炳棹研究室でお茶を飲んだ後、大学正門前から出るソウル行きのバスに乗る。三時間程でソウルのバスターミナルに着き、景福宮の近くにある大元旅館へ。ここは質素で格安な宿として有名だ。そこから中野とヨンソンは日韓演劇交流センターで翻訳をしている木村さんのやっている坂手洋治さんの芝居へ。
残りのぼくたちは小劇場が沢山集まる大学路へと移動。手頃な演劇を探すが、結局インフォメーション・センターで勧められたゴムル・バンド・イヤギ(Junk Band Story)というミュージカル・ドラマを見に行く。これが思いがけず大ヒット。最初は150人程の地下ホールに30人程度しか客が居らずどうなることかと思ったが、時間を忘れるほど楽しくエキサイティングな時間を過ごした。韓国では「ナンタ」(台所ミュージカル)とか「ジャンプ」(格闘技コメディ)など超絶パフォーマンス系の舞台が人気だが、これはそれらとも少し違い、バンドコンテストに出場しようとする若者たちの話。メンバーはリズム音痴だったり音痴だったり、緊張症ですぐに下痢になったりとどうしようもない上に、お金がなくて楽器もない状態なのだが、その辺に捨てられている空き瓶やパイプを使ってコンテストで優勝するというような話。彼らはジャンク楽器や、口ドラム、口ギターなどを駆使して素晴らしい演奏をする。音響技術がすばらしく、後半はコンサートになるものの、きちんと芝居もでき、歌も踊りもすばらしく、すっかり引き込まれてしまう。演出家は「ナンタ」のメンバーだったそうだ。余りにすばらしくて終演後に表に出てきちんと挨拶をしている5人に話しかけると彼らも喜んでくれた。制作の人と話すと、日本語学科の出身らしく日本語も通じる。結局はこの公演に二日続けて行ってしまうことになる。
ソウル最終日は椎野や禿と景福宮、仁寺洞、南大門、明洞、東大門など忙しく動き、6時に中野や他のメンバーと合流。中野もマチネーでJunkBandStoryを見ていたのだが、他の演目も検討した挙げ句に結局はもう一度これを見に行くことになる。今度はほぼ満員で上の方から見たのだが、メンバーに少し疲れが見え、観客のノリも少し重かったのだが、それでも十分満足できるできばえだった。またメンバーとしゃべり、プログラムにサインをしてもらい、写真を撮って帰る。これ、誰か日本に呼んでくれないかなあ。タイニイアリスとかスズナリとかなら絶対に大ヒットすると思うのだけれども。
望月六郎組のショートムービー上映会は14日の晩に横浜駅西口の会場を借りて実施。約100名弱が集まった。
一週間前に監督にきてもらってラッシュ上映を行ってから、再編集と簡単な撮り直しで大丈夫と言われたひと組を除いて、残り二組は「手直し不可能」と言われてしまい、そこから戦いが始まっていた。二年の女子学生監督は無理な日程の中でスタッフ、キャストを集めて撮り直しと再編集。毎日徹夜で大学で作業をしていた。一方、単位無関係に参加した一年の男の子は、初めての撮影で音がよく拾えておらず、画質もバラバラで、手直し不可能。全部アフレコしなおすか、いっそ開き直ってメタ・ムービー風に作り直すしかないと言われ、最初は落ち込んだ自分の姿を映すとか、「ニコニコ動画」風に画面をコメントで埋め尽くすとかいろいろ言っていたのだが、自宅で一人でやっていたせいで上映会の三日前にクラッシュ。「上映会には出ません」と言う。呼びつけて話を聞くと、強い自己嫌悪に捕われてテープもデータもすべてめちゃくちゃに破壊してしまったので何も残っていないと言う。手伝ってくれた5,6名に悪いと思わないのかと言うと土下座して謝る。最近の子は追いつめるとすぐに土下座する。テレビか漫画で見ているからだろうか? 本当に謝っているのではない。追いつめると「じゃ、どうすればいいんですか?」と逆ギレる。
どうしようもないのでそのまま帰宅したら、10:30くらいにメール。「お恥ずかしいがカメラケースの中に粗編集したディスクが一枚残っていた。二年の子から一人でやっていないで、一緒に大学でやらないかと言われたのでいま大学に戻った」と言う。さらに女の子から電話がかかってきて、カメラケースは先生の研究室の中にあるらしい。鍵がかかって入れないとのこと。しばらく悩んだ末に、今から鍵を渡しに車でそっちに向かうから、お前も自転車で新横浜方面にできるだけ走ってこい。というと20分後くらいに全距離の半分近くで全速力で風の中を疾走してくる自転車に遭遇。結局、それから4,5人が大学に集まって徹夜で作業をしたらしい。そこまでは良かったのだが、次の日の上映会打ち合わせにことごとく遅刻、欠席。上映会で望月監督に「また次を作れよ」と励まされたのに「当分はもういいです」とヘタレな返事で拍子抜け。打ち上げでは、自分のシナリオが採用されず泥酔した女子学生に力は加減してはあったもののしっかりグーで殴られていた。そんなこんなも今時の学生らしい。でも、もう少しがっちり追いつめておけば良かった。
一方の久保井組はその間も稽古。結局は唐十郎が見にきてしまうことに危機感を抱いた久保井研は連日7時間の猛稽古。三日前までは最後まで行けていなかったのに猛チャージを見せ、15日の本番に。本番の前の日は久保井も泊まりこみ、朝から通し稽古。唐さんが見にきた1時の回と5時の回、見違えるような気迫にこもった演技をした。唐さんも喜んでくれて、同じ日に初日を迎える唐組の鳥山昌克君が柳橋でやった一人芝居「眉隠しの霊」に行く前に結局焼酎を何杯か飲んでしまう。唐ゼミの中野が唐さんと同行したが、結局朝方まで飲んでいたようだ。大学での打ち上げも全員が解放感を爆発させ、泣き出す者もいて大変。それでも、久保井が「来年も手伝ってくれる奴手をあげろ」と言うとパラパラしか手が挙がらなかったり、まだ2年生なのに「大学四年間で今日が一番楽しい日だと思います」とスピーチする者も居てちょっと鼻白む。要するに3年からは就職活動とか何やらでもう楽しい学生生活はないと思っているわけだ。まあ、授業の枠は完全に突き抜けてはいたけれども、所詮は授業やサークルではそこの壁は越えられないのかもしれないが、それでもこのメンバーはいろいろな困難を乗り越えて結束力が強まり、みんなで「動物園が消える日」の舞台となった東京ディズニーランドに行ったり、近畿大学の「動物園」にも8人もがやってくるなど、今回のことは記憶に深く焼き付けられたに違いない。
その間、18日には中野をはじめ唐ゼミ総勢6名が韓国・全州に出発。27日晩の韓国版「盲導犬」公演に向けて準備を始めた。韓国人キャストの風邪と接待攻勢に耐えながら、ようやく舞台のセッティングまでこぎつけたらしい。
そして、22日から24日までの三日間、東大阪の近畿大学での近大版「動物園が消える日」。23日日帰りで行ってきた。鶴橋でお昼を食べ、長瀬のホームに降りると、横国版の動物園職員を演じた二年生と一緒。そのまま大学町を歩いていると、不動産屋のセールスに「お部屋探しているんじゃありませんか?」と声をかけられ、どうやら受験生と父親に間違えられたと分かり気分が悪い。近大は三年前の「唐十郎フェスティバル」以来。駅前商店街の様子は少しさびれていて不景気を感じさせる。キャンパスに入ったら早速チラシをまいている学生に遭遇。土曜のマチネということもあり、100名ほどの客席はほぼ満席だった。エレベータで松本修さんに会い、研究室で西堂行人さんとしゃべっていると、うちのチームから8名が深夜バスなどで駆けつけているとのこと。唐ゼミ副代表の新堀航も来ていた。何しろ、一週間前にやったばかりの芝居であるから、客席でもうちの周りばかり賑やかだ。キャストはみんなキャラが立っていて面白い。全力でやっているので見ていて気持ちがいい。灰牙をやった小林徳久君は、近大版「唐版風の又三郎」の宮沢先生をやった卒業生だが、演出補という役割で唐さん、松本さんの片腕として頑張った。基本的には唐組版の音楽なのだが、やはり久保井版と比べると細部の演出が弱い。今回からは授業ではなくて「唐十郎演劇塾」という自主公演の形を取っているので、参加者のやる気と気迫が伝わってくるいい舞台なのだが、二幕に入るとやや息切れが目立つ。一番の違いは舞台装置で、役者の手作りでひとつひとつのブツが役者と対等に主張してくる唐組系の舞台とはちがってミニマルでリアリスティックな舞台美術がやや物足りない。久保井組では、教室を使うことで断念した本水も使っているのだが、その割にはエンディングの迫力は伝わらず。やはり、主演と演出はなかなか両立させることは難しい。だが、その小林君の灰牙はなかなか頑張っていて、唐さん一押しのオリゴ役、森レイ子さんは、楽屋で見かけた時とは一変して舞台映えする艶やかな姿で大器を感じさせた。あれで場数を踏んで行けば大化けするかもしれない。
久保井組の学生たちは夜の回も見て行くというので、近くの中華屋で早めの夕食をおごる。松本さんに伝えておいたので、どうやら終わった後の打上げにも入れてもらえて楽しく過ごしたらしい。雪も降り出し、身を切るように冷たい暴風が吹荒れる中、ぼくだけ新幹線で帰宅した。明日は入試、明後日から韓国に行ってくる。
今のところうまくいっていることと、いま一つうまくいかないことがごちゃごちゃと絡まり合い、とにかく慌ただしい一月だった。大学でいろいろ仕掛けていることで、学生たちがここ数年記憶にないほど頑張ってくれているのは楽しい。卒論とかゼミとかなかなかうまく行かないことも多いけど。一番駄目なのが自分の仕事だ。結局、伸ばし伸ばしにしてなかなか手をつけられずにいる。このblogが更新されないのもそういうことなのかもしれない。原稿書いている時には、結構気分転換でここにも書く気になるものね。
唐さんの流れを組んで、唐組の久保井研に面倒を見てもらっている「舞台芸術論A/B」の発表会。「動物園が消える日」のメンバーが2チームに分かれて日夜稽古に勤しんでいる。去年の「愛の乞食」の件がいい影響を与えているようだ。2月15日に唐研の小舞台で昼夜と試演会を行うが、これが楽しみだ。現在水戸芸術館に客演中の久保井研も来週からは毎日駆けつけてくれるようである。
「動物園?」と言えば、現在同時進行で唐さんが行っている近畿大学でもやっていて、こちらの試演会は2月22-24日。うちのメンバーも10人近く大阪まで行きたいと言っている。こういう相乗効果があるとみんなのやる気と気迫が違ってくる。92年初演のこの作品は、唐組では00年に盛岡だけで二日間再演、02年と03年に唐ゼミが三日ずつ大学と金沢でやっている。金沢の元サニーランド跡地や県立動物園でカバと対面したりといろいろ思い出深い作品。
同じく去年は三枝健起さんに担当して頂いた「舞台芸術論C」では、今年、望月六郎監督にお願いして20本のシナリオから選ばれた3本のショートムービーの制作中。三人の監督は一月に新小岩の望月宅に招かれて、手作り鍋で激励され、かなり頑張った。こちらは、14日の夜に市内の某所で上映会を計画中。こちらも凄く楽しみだ。
一方、唐ゼミ☆と日韓共同制作を行う全州大学演劇科の学生たち7名が1月21日から訪日。31日に帰国するまで、韓国語版の「盲導犬」の準備に明け暮れていた。こちらは、日本側6名が2月18日から訪韓。27日に全州大学のホール(600席)で、新入生歓迎イベントのひとつとして公演を行う。ちょっと画期的な出来事であり、公演にはぼくも合流する。
その他、卒論発表会とか、大学運営に関する会議とか、入試とか、おつきあいとか二月は何かと忙しい。春休みは毎年どんどん短くなり、3月26日に卒業式で4月2日には入学式だそうである。法人化以来、学長権限を強化し、中央集権化を進めると同時に、個人や各研究部門の自発的な研究計画の策定と外部資金の獲得推進という、いわば事業部制的なネットワーク化という完璧に矛盾しており、絶対に破綻するほかはない大学政策を進めてきた責任者たちはいったいどうするつもりなのだろう。もう、取り返しがつかないほどに、日本の大学は破滅への道を踏み出してしまっている。どうしようもないね。まあ、どちらにしても世界も日本もどんどん悪くなることは確実なので、でも、そんなことではけっして消されることのない生き物の輝きを引き出していくという楽しみは、身の回りにいくらでも転がっているので、めげることはない。負け組にこそチャンスが残されているのだ。
いやあ、年末年始と体調を壊してずっと寝込んでいた。まだ調子が変だが、もう仕事も始まってしまった。精神的にもかなりダウンしていたのだが、気を取り直して今年も頑張りたい。毎年のことだが、今年も年末〆切の原稿を何とか正月を使って仕上げた。今年は単行本を一冊出したいと思っている。
さて、「月刊リベラルタイム」2月号特集「『禁煙ブーム」に潜むファシズム』に、エッセーを発表しました。このところ日本パイプクラブ連盟のサイトで「煙から世界を読む」という連載をしていたのが編集者の目に入ったようです。フジ=サンケイ・グループから発行されている駅のキオスク売りの雑誌ですので、反響が楽しみです。一応、テレビ・新聞系のマスコミが嫌煙運動のおかしさを初めて正面から扱ったという意味では画期的な特集だと思います。是非手に取って読んでみてください。
7日の石森史郎さんとのトークは何とか100名以上は集まってとりあえず成功。終わった後、唐ゼミ☆の協力で鍋を囲んで打ち上げができたのも良かった。石森さんの奥さんの房江さんも一緒でいろいろ楽しいお話を聞かせていただいた。お二人は結婚されてまだ五年程ということだが、まだ四十代の房江さんが、籍を入れた後で初めて夫が七十代なのに気づいて驚いたということである。石森さんはそのくらい若くて活動的だ。来年は初監督作品となる戦後のGHQを描いた映画に取り組むと言っているし、さらにその次回作も書いている。
その後、8日は日本記号学会の理事会と日本パイプスモーカーズクラブの忘年会と、たまたま両方とも銀座で開かれた二つの会をハシゴ。さすがに次の日はバテていた。さらに13日には二年生のゼミ紹介と恒例のマルチ忘年会。だんだん学生たちが普通になって、元気がなくなっているのが少し寂しいが、まあいつものように二次会までつきあい、次の日はお世話になっている望月六郎監督の撮影現場に。ここに20名程エキストラに行っているのだが、熱気溢れる現場で刺激を受ける。もっと授業を受けている学生たちに参加して欲しかったのだが、バイトだ授業だとなんだかんだとノリが悪く、あげくに遅刻してすっぽかす奴も出たりとこれまた残念。何に対しても驚かず、感動せず、臆病な受信者の位置に引きこもろうとする学生たちをどうやったら引きずり出すことができるか、いろいろ仕掛けはしているんだけどなあ。望月監督は今週で撮影が終わり、来週忙しい中大学に来てくれることになった。学生たちのシナリオは20本程残っている。さあ、ここからどうなるか。
以前のエントリーにも書いたシナリオライターの石森史郎さんをお招きして、映画「約束」の上映会とトークをします。本当は土曜日に広く一般公開でやりたかったのですが、76歳でも現役で精力的に仕事を続けられている石森さんのスケジュールの都合で金曜日の夕方になってしまいました。それでも、久々にぼくが企画するイベントですし、何と言っても35年の年月の記憶が込められているので特別なイベントです。忘れられないイベントになるように学生たちとせっせと準備をしています。幻の名作「約束」が大画面で見られる上に、そのオリジナルシナリオの作者がやってくるのですから、是非たくさんの人に見にきてもらいたい。
1972年にこの映画の映画評が新聞に出ていて、駅の地下道で佇むショーケン(萩原健一)のスチル写真に何かしらぐっとくるものがありました。ショーケンはグループサウンズ「ザ・テンプターズ」のヴォーカルで、「ザ・タイガーズ」の沢田研二と並ぶアイドルでしたが、この作品で役者として戦慄的なデビューを果たします。
また、岸恵子は「君の名は?」で松竹の看板スターとなり、その後フランス人監督イヴ・シャンピと結婚。後に離婚するがこの「約束」の時には四十歳。日本とフランスを行き来して女優を続けていたが、恐らく60年近くになる女優生活の中でもこの「約束」は彼女の代表作と言ってもいいだろう。
元々は二時間以上の分量のあるシナリオを、90分に無理矢理に短くした映画であり、多少切り詰められすぎたきらいもあるが、その分どの瞬間からも目を離せない凝縮した作品になっている。
もう一つ告知。唐十郎と劇団唐組を描いたドキュメンタリー「シアトリカル/劇団唐組の記録」が12月1日から渋谷のイメージ・フォーラムで公開される。唐ゼミの連中やぼくもなぜか映っています。こちらは、「新宿泥棒日記」を撮った映画監督・大島渚の次男、大島新監督の劇場用映画デビュー作。初日は監督と唐さんの舞台挨拶もあります。
研究棟の「耐震補強工事」のためということで、7月から学内で放浪生活を余儀なくされていたが、ようやく研究室に戻った。と言っても、工事自体は2月末まで続く。引っ越し荷物もまだ戻ってこないので、がらんとした部屋の中にいる。空調もまだ動かないのでとても寒い。
先月行った北大でも京大でも神戸大でも、とにかく日本中の大学でこの「耐震補強工事」をやっている。巨大な公共事業なのである。姉歯氏のおかげでゼネコンと下請け業者たちは大儲けできたわけだから皮肉だ。耐震構造の基準自体もどうも信用ならないし、耐震補強そのものはおざなりで、内装やトイレに金をかけているのも変な話だ。
どうも、新しい建築には馴染めない。廊下の蛍光灯もセンサーライトで、下を歩く時にだけ点灯する。ドアも過度に頑丈そうなものになり、一層監獄感を強める。過度に衛生的なものにはどうも馴染めないし、天井付きのエアコンが入った代わりに水道もガスも部屋から撤去されてしまい、不便この上ない。
それでも、非常勤講師のように居場所が無く学内をうろうろしていた状態からようやく解放されたのはうれしい。
旧唐研究室も使えるようになり、ここだけは工事業者ではなく唐ゼミ☆が自分たちで舞台を作り直している。今度は横向けの広い舞台にするそうだ。4階の学生演習室ももう少しすれば元通りになる。やっぱり大学は学生や教員が同じ場所に集まっている状態でないと面白くない。
19日から3日間の公演につきあって、毎晩夜遅くまでつきあい、月曜の早朝新幹線で文部科学省の会議に何とか間に合うというきつい日程だったが、行けて良かった。東京から来て頂いた方や、神戸、大阪は勿論、遠く福井、金沢、長野、名古屋などからも沢山の観客に見に来て頂いた。感激したのは、初日に嶋本昭三さんが見にきてくれたことだ。冷たい雨と京都の底冷えにさすがに途中で退席されてしまったが、80歳の巨匠がわざわざ芦屋から足を運んでくれたのがうれしい。開演前に久々に近況を伺うことができた。その他、京大吉岡研究室の面々にはとてもお世話になったし、京都精華大学の島本浣さんや佐藤守弘君、名古屋大の秋庭史典君、神戸大の前川修君ら札幌美学会で出会った友人が沢山の若い仲間を連れて来てくれた。ほかにも沢山‥‥。
これだけ来てもらえて、中野敦之とずっと議論してきた新しいエンディングを見て頂くことができて良かった。実は「鐵假面」には二つのテキストがある。72年の公演前に文芸誌『海』に掲載されたバージョンと、単行本、そして「全作品集」に掲載されたバージョンであり、この二つは全く違ったエンディングを持っている。具体的には、前者ではタタミ屋はスイ子を突き刺し、後者では味代を刺す。台詞も多少違っている。これまでは作者の最終校定版を尊重してきたが、京都では「海」版を試みてみたのである。というのも、ジブリの森でエンディングの型が一通りの完成を迎えたと判断したからだ。初日に、完全な「海」版をやってみた後、またまた議論して二日目、三日目にはやや説明的すぎると思われた台詞だけを元に戻したハイブリッド版をやってみたが、これが思っていた以上に素晴らしい出来だった。見てもらった人たちにも大きな衝撃を与えることができたと思っている。
ほんと、事件的演劇ではなくて、演劇的事件というような意味では、これ以上に面白い演劇なんて滅多にお目にかかれないんじゃないかと思う。
それにしても、「鐵假面」のこの最後の数分間は、数ある唐作品の中でも高密度の驚くべきラストなのではないかと思う。20回近くやった公演の中で時には日替りで変えながらも全く飽きることがなかった。
てなことを書いている間に、中野から無事横浜に到着したという電話があった。この半年間、唐ゼミ☆という集団にもいろいろな変化があったが、その多くが大きな成長を果たしたと思う。
京都ではちょうど同時に公演中だったパレスチナ・キャラバンから大久保鷹さんが一晩合流してきてぼくたちの宿舎に泊まっていったりした。あちらは別な意味で大変そうである。大久保さんを迎えに行く時に、おそらく30年近くぶりに西部講堂の中に入った。色々な意味で複雑な気持ちになる。
ジブリの森での唐ゼミ☆「鐵假面」は無事に終わった。一度6-7月にやったものであるが、流石にみんな色々考えて来ていて見違えるような良い出来になった。一幕とエンディングにまだ課題は残るが、それは最終公演となる京都でお見せできることになるだろう。はっきり言ってこんなにスリリングな演劇イベントは他には滅多にお目にかかれないと確信していますし、とにかく絶対お勧めですのでお近くの方は是非どうぞ。おそらく京都だけのスペシャル版のエンディングになると思う。ところで、京都公演は、四条河原町の元立誠小学校で19?21日の三日間である。木屋町通り側に入り口がある。詳しくは唐ゼミ☆のサイトへ。
その後は、梁山泊のテントで以前からお顔を存じあげてはいたがお話ししたことがなかったシナリオ作家の石森史郎さんが脚本を書いている「東京ピチピチボーイズ」の公演を見に椎野と一緒に赤坂に行ったり、大久保鷹さんたちのパレスチナ・キャラバン「アゼリアのピノキオ」、そして唐さんたちの「行商人ネモ」と忙しく芝居を見て回った。また、大島新監督の「シアトリカル」の試写会にも足を向けた。
石森史郎さんは、昭和三十年代から日活、松竹、テレビなど幅広くシナリオを書き続けてこられた方で76歳になるがきわめて壮健で活動的な方である。たまたま1972年の「約束」(斎藤耕一監督)の話が出て、ぼくが高校生の時に感動して池袋文芸座にまで観に行ったという話から、お誘いを受けた。この映画、DVD化もされていないので、一度大学に御呼びして上映会をしたいと考えている。「アゼリアのピノキオ」はとにかく台本と演出がどうしようもない。大久保さんもパレスチナ勢ももっと気持ちいいことをやりたいのだろうに、残念としか言いようがない。三鷹の森での唐組公演「眠りオルゴール」はまだまだ続く。
また、去年までの三枝健起監督に代わって、望月六郎監督に「舞台芸術論C」という授業をもってもらうことにした。初日の顔合わせ、飲み会に続いて二日目は「皆月」の上映会。これは99年に金沢で見たのだが、そのときの印象を上回っていて、改めて傑作だと思った。とても良く作られている映画である。そのこともお伝えして、これから学生たちとどう関わってくれてどんな形で進んで行くのかとても愉しみだ。こういうことを企んで仕掛けているのが一番面白い。
大学は始まったが、まだ耐震補強工事が続いていて研究棟が使えない。学内のいろんな場所を放浪しながら居所を作り出そうとしていた。
そして土曜日から札幌での美学会。京都精華の学長職で一泊しか出来ない島本浣さんのリードで、京大、神戸大、東大の若い大学院生たちを交えての飲み会でいきなり初日2時前まで宴会。北大は建物内禁煙になっていてのんびり煙草を吸いながら休憩できる場所がなく、仕方なく学会に参加して発表を聞いたり、発言したりしていた。二日目は京大の吉岡洋や京大の若手OBたちと軽く。前回日本記号学会で来た時には山口昌男さんのリードでいろいろな名店に連れて行ってもらったが、札幌駅周辺の居酒屋は九州料理や四国料理、あるいはチェーンの居酒屋ばかりで、あまり北海道らしい物にはありつけなかった。初日、二日目の昼間は暑かったが、日が落ちるとさすがに寒い。三日目の午前中の現代美術のセッションは司会。昼過ぎからは円山公園や大通り公園を散歩して夜の飛行機で帰宅。新千歳空港でも学会参加メンバーと多数遭遇し、神戸大の前川修君と喫煙所で雑談をして、飛行機に飛び乗った。
美学会は以前とはだいぶ様子が変わってきていて、音楽、映画・映像、現代美術、「視覚文化」論、美術史が主流を占め、いわゆる哲学系の「美学」の発表が極端に少なくなっている。そのこと自体は全然悪いことではなくむしろ歓迎すべきことであるとは思うのだが、それらが割と平板な「ブログラム」と化していて、みんなが細分化した領域を何の疑いもなくカバーし合っているような感じがして、これはどうなんだろうなと思わなくもない。方法論や理論的枠組みそれ自体が問い直され、疑われることなく、何となく共有されたOSのようなものの上でいろんな対象について論じるだけなら、それらは以前の「カント美学」が氾濫していた美学会と結局は同じことなのではないかという気もする。つまりは、昔は「ドイツ系美学」について語ることが「正しいふるまい」であると思われていたのが、たとえば「写真」や「視覚文化」について語ることが「正しいふるまい」であると思われるようになっただけのことであるとしたら、それは結局何も変わっていないことになるからだ。20代の大学院生たちは昔よりも「屈折していない」ような感じがする。つまりは、自分たちがやっていることの本質的な「いかがわしさ」や「うしろめたさ」のようなものは余り感じていないような気がする。彼らはとても知的でまっすぐな好青年たちなのではあるが、その辺りがちょっと物足りないところでもある。
6?7月とやったものだけど、完全リニューアル版で相当面白い! 本当の森の中で、人間の心の中にある深い森が出現します。
役者たちも新演出も絶好調ですが、ちょっと観客数で苦戦しているようなので、お近くの方は是非足をお運び下さい。
これは「唐十郎プロデュース・三色テント出で立ち公演」と銘打って、新宿梁山泊「唐版・風の又三郎」、唐ゼミ☆「鐵假面」、唐組「行商人ネモ」/「眠りオルゴール」と、唐十郎四作品を三つの劇団が同じ場所に色違いのテントを張って連続公演をするというもので、九月十月の週末はここに来ると必ず唐十郎作品が見られるという素晴らしい企画です。その上、そこから500メートル北には、大久保鷹さんたちのパレスチナ・キャラバン「アゼリアのピノキオ」のテントが立ち、27日の初日向けて連日パレスチナ人5人を含む役者たちがロバと一緒に稽古に熱を入れている。これもある意味、74年の「唐版・風の又三郎」パレスチナ・キャンプ公演から始まった企画なわけで、これが同じ場所で展開されているというのも凄いことだ。
というわけでこのところ毎週井の頭公園通いとなっている。遠いので大変だ。梁山泊の初日には中野と椎野と三人で行ったのだが結局終電に乗りはぐれてしまい、新宿駅南口にある某大里俊晴邸に襲来。始発で帰るという学生並みのことをやってしまった。
大学の方もそろそろ後期が始まる。こちらもいろいろ新機軸を考えているので、面白いことがいろいろ起こりそう。
大学の改修工事が遅れに遅れており、たまに出て行っても居場所がないこともある。ひたすら家でパソコンに向かい原稿やら、中古パイプのオークションやらやっていた。去年の今頃はリンツからスペインに移動していたのが嘘のようだ。
16日?17日は恒例の山中湖乞食城での唐組稽古場公演に。10月にやる「眠りオルゴール」の一幕通しを見せてもらった。2004年秋に唐ゼミから禿、前田、古川、小川の四人が客演した作品なのでなつかしい。唐組の若手や新人が新鮮だった。湖畔の立花邸にお邪魔して箱根の日帰り温泉に寄って帰宅。山中湖がこんなに暑かったのは初めてかもしれない。
そして、30日から9月2日までは、水戸芸術館でのバッタの地上置き展示。去年の秋にもやったのだが、ぼく自身は二年ぶりになる。ここでは2002年夏の「カフェ・イン・水戸」以来、もう5,6回はやっている。中野、椎野、禿、新堀、杉山の五人を連れていって、久々の水戸芸レジデンス(実は昭和20年代風のあばら屋)に三連泊。学生合宿の気分で、一日目はトランプまでやってしまったが、あとは飲み過ぎたり、バタバタしていたりで寝ていた。その間、大工町の韓国居酒屋「豚いっぴき」、「ぬりや」のうなぎ、大洗の海鮮丼などいやと言う程美味しい食べ物を堪能した。椿昇もやってきて、子供たちと5mの「手作りバッタ」のワークショップ。2日には完成してはしゃいでいた。
水戸の町も水戸芸も変わっていく。必ずしもいい方とは限らない。もうここでバッタの地上置きをやるのは5年目だが、そろそろ新しいことを考えたい。同じことを続けるのは飽きる。バッタはこのままカナダに送られ、トロントのニュイ・ブランシュで野球スタジアムに一晩展示されることになっている。9/30なので、ぼくは行けないが、椿昇がついていってYouTubeに映像を載せると言っている。キーワード、Batta, trontoだそうだ。
もう九月になってしまったので、例の「井の頭野外演劇祭」が始まってしまう。もう、今週末から梁山泊の「風又」。大久保鷹さんのパレスチナ人とのテント公演もあるし、二週間後には唐ゼミ★「鉄仮面」。そして唐組の「ネモ」と「眠りオルゴール」と続く。週末が忙しいね。
去年はこの期間ずっとヨーロッパを旅行していたので、この感覚、ちょっと新鮮。約束していた単行本の仕事とか、さまざまな雑事が積み上げられているが、自分で時間をコントロールできるのはありがたい。ただ研究棟改修でこの期間、大学に出ても居場所がない。必然的に家にいる時間が長くなる。
唐ゼミ★の関内公演が無事終わったのが22日。結局唐さんもやってきてくれて、高円寺まで車で送って行った。24日が例の日本パイプスモーカーズクラブの会。25日が最終教授会。27日は一年生たちのパーティ。岡野町の店を貸し切り、70人規模の会で盛り上がった。29日は参議院選挙。大衆はいとも簡単に権力に牙を剥く。但し、そんなに大した理由もなく、結局はまたすぐに権力におもね、自分たちの利益を確保しようとする。いずれにしても現在の日本人の症候がこのような形で現れただけのことであり、方向が明確に変わったような感じはしない。しばらくはこうした迷走が続くが、とりあえず権力の一極化に(ちょっとだけ)歯止めがかかったのは結構なことだ。誰もはっきり言わないが、もう選挙とか間接民主制とかいう形の見せかけの公正さにうんざりしているのは誰しも同じであろう。地域のお祭りのような選挙、選挙期間中黙り込むテレビや新聞、政治ボランティアと称する利権を求めて群がる支援者たち、こんなローカルな遊びに参加して何になると鼻白みながらも近所の小学校に投票に行った。アー、かったるい。
31日に、研究棟改修のための引っ越し準備最終日。自分の部屋と旧唐研究室、唐ゼミ★のセットや資材などを動かした。唐ゼミ★は一日では終わらず結局次の日の夜遅くまで持ち越した。3-4日はオープンキャンパス。だんだん規模が大きくなっていき、予算も増えているが、果たしてどれだけ効果があるか疑問。ただ、高校生や親や、何しに来たのかわからないギャルたちと、普段大学では見かけない人たちが押し掛けるのは少し新鮮だ。その間3日には、横浜市の河本さんの案内で寿町の物件をいくつか見に行く。昨年の吉浜町公園での「お化け煙突物語」最終日に、見に来ていたお客さんの奢りで御馳走してもらった石川町駅近くの味香園で夕食。四川系で辛くてうまい。
その間、ネットでいろいろとパイプについてのお勉強。ついついヤフオクやeBayのオークションサイトに手が出てしまいパイプの数が増えて行く。パイプスモーカーズクラブのオークションで3000円で買ったTSUTOMUのベントパイプが、他のものに比べて圧倒的にタバコの味が良くなるのに驚いて、ついいろいろ欲しくなってしまったのだ。というよりも、スターターズキットについてきたイタリア製のベントや、オークションの会場でただでもらった柘のビリヤードのような普及品パイプでは、タバコ葉が焦げてしまい舌や唇をやけどしてしまう上に、味も苦くなってしまうのである。これは喫煙技術の向上で解消されるらしいが、それには時間がかかるし(10年はかかると書かれているサイトもあった)、何よりも早くうまいタバコを吸いたいと思うと、道具としてのパイプに目が行くのだ。タバコの種類もイギリス系、アメリカ系、ヨーロッパ系と一通り試してみた。ラタキア系のダンヒルや飛鳥も、使うパイプによって全く味わいが違って来る。というわけで届いたのがこの新古品のスタンウェル。これがまたタバコがバカ旨い。こうなるとどうも、いろいろなパイプを試してみないと収まりが悪い。‥‥というわけで、しばらくはパイプ道楽が続きそうだ。懐具合もあるので、なかなか難しいが、とりあえずは見かけよりも機能に重点を置いて数千円程度の中古品に手をつけていこうと思う。それにしても本当に百年以上前のパイプが高値で取引されているのだから、この愛好家たちの世界も奥深い。
ようやく夏らしくなってきて、外は暑い。久しぶりに書斎に引きこもりながら色々やれなかったことをやってみたり、考えてみたりしたいと思っている。
ショック吸収カバー「まもる君」というのを装着してガンガン使った。ガンガン使いすぎて早めにお亡くなりになってしまったのである。これには去年の今頃、ヨーロッパでお世話になった。ウィーンの駅でVAIOを盗まれてしまってから、ブタペスト、クラコフ、ワルシャワ、ベルリン、ミュンヘンとこのマシン一つで旅行して回った。もちろんPHS機能は使えないが、WiFi接続ができるのでこれでインターネットにつないでいたのである。メールやウェブチェックはもちろん、ホテルやフライトの予約など何でもこれでやった。ほぼ毎日日記すら書いていた。ブタペストのホテルで必死でLANサービスにつないだり、プラハのネットカフェでコンセントの横の席でつないだり、ワルシャワで完全初期化をして復活したりと、その時々の記憶が鮮明に蘇ってくる。短い間だったが本当にお世話になった可愛い奴だった。
そんなハードな使い方をしていたせいか、途中から電源の具合がおかしくなった。充電できないのである。接触不良かと思うが、圧力をかけないと充電できないどころか勝手に放電して死んでしまう。さらにはバッテリーの消耗が早く、すぐに消える。電源部を修理交換してバッテリーを新品に変えれば何とかなると思っていた時期に、新製品が発売された。何せWindowsMobileもV.6に更新されているし、もともと電話とPDA機能が一体化しているものにしか興味はないので、すぐに予約した。だいぶ軽量化して、ちょっと大きめの携帯電話という感じか。初代はでかすぎるので、これで電話しているとみんなが「えっ、それって電話なんですか」と驚いてくれたが、これならそういうこともなくなるだろう(ちょっと寂しい)。
日本パイプクラブ連盟という団体から、煙草についての連載をしてみないかという話があって、二週間程前に丸の内のシガーバーで打ち合わせをした。パイプのコレクション千本以上という連盟の会長と理事の方とお目にかかり、連載をお引き受けした。既に第一回が掲載され、第二回の原稿を執筆中である。
今年に入ってWHOや、その傘下にあるFCTC(煙草規制枠組条約機構)などによるなりふり構わぬ攻勢が激しい。全く根拠もなく「科学的エビデンス」の旗印の下に「異端狩り」を進めようというこれらの健康ヒステリー患者たちの姿は、「禁煙ファシズム」と言うよりもまさしく中世の十字軍や「魔女狩り」にきわめて近いように思われる。21世紀と共に世界は「新しい中世」に突入した。「ポストモダン」の後に来たのは不寛容な原理主義と一元的なグローバル経済が結びついた「中世」への回帰だったのだ。まあ、そんなようなことは連載の方でじっくりと考えて行きたい。
さて、問題はこの依頼を頂いたのが「日本パイプクラブ連盟」であったと言うことである。打ち合わせ中三人のパイプスモーカーがご自慢のパイプでうまそうに煙草を吸っているのを見て羨ましくなってしまった。雑談中にも何度も勧められるので、とりあえずネットで「スターターズキット」を購入して面白半分で試してみることにした。
昔、煙管タバコや、葉巻やシガリロは試したことがあるが、パイプは初めてである。やってみたら、これがめちゃくちゃ旨い。元々ぼくたち喫煙者は煙草が旨いから吸っているのである。けっして単なるニコチン中毒で吸っているのではない。だが、パイプ煙草の旨さはシガレットとはちょっと次元が違う。ゆったりと吸い終わった後、思わず「ごちそう様」と言いたくなるほど満足感が深いのだ。葉巻も旨いがやはり高価だし、それなりの時間的余裕がないと吸えないし場所も限定される。
シガレットは肺の奥まで吸い込む肺喫煙だが、パイプや葉巻は口腔と舌や鼻の粘膜で楽しむ口腔喫煙である。最初はこんなもので満足できるものかと思ったし、舌先や唇にぴりぴりした刺激があったりもしたが、これは吸い方次第でコントロールできる上に、何よりも煙草それ自体が「旨い」のである。肺まで吸い込まないから喉や気管への負担も軽い。実際、シガレットが全く吸えず、煙草の煙に咳き込んでしまうような人でもパイプなら全く大丈夫らしい。アメリカでも、シガレット喫煙者は生命保険料が非喫煙者よりも数倍高くなるが、パイプ喫煙者は安いのだそうだ。ぼくはシガレット喫煙の肺ガン原因説は相当誇張されている嘘だと思っているが、それでも少なくとも呼吸器官を刺激することなく、煙草の旨さをこれほどにまで楽しめるのならそれはそれでいい。一種のおしゃぶりだから癒されるし、パイプという道具にも何か安らぎを感じるので、これはなかなかいいのではないかと思った。
連盟の方にそんな感想を伝えたら、早速銀座で開かれる日本パイプスモーカーズクラブの例会に招待された。老若男女、多種多様な職業のパイプスモーカーが二十数名集まって、全員パイプをくゆらせている。その日は年に二回のオークションで、会員の人たち秘蔵のパイプや関連グッズが出品され、ぼくも思わず二本ほど購入してしまった。昔のパソコン通信のオフ会にも似て、見知らぬ人たちともパイプのネタですぐに話が弾むようになるところも面白い。なるほど、これはクラブとか連盟とか、仲間が居るとますます楽しくなる道楽なのだということが分かった。
てなわけで、最近はいつもパイプを持ち歩いている。運転中にシガレットをちょっと吸う以外はずっとパイプ。煙草代も大幅に安上がりだし、何となく幸福感もある。「似合わない」とか「似合っている」とか色々言われもするが、まあそんなことはどうでもいい。煙草は楽しいし、やっぱり美味しい。パイプ煙草にはウィスキーや香料が加えられたものもあり、たいていみんな「いい臭い」と言ってくれるし、シガレットよりも煙が少ないので周りの人にもあまり迷惑をかけないで済む。いいことだらけである。というわけで、今やぼくも、ぼくに盛んにパイプを始めることを勧めてくれた連盟の人たちと同じ気持ちになりかけている。まあ、単純なものだが、要するにそれほどパイプ煙草は旨いし、幸福で豊かな満足感を与えてくれるのである。手軽さではシガレットにかなわないが、ネイティヴ・アメリカンたちが教えてくれた本来の煙草の素晴らしさ、美味しさ、文化的伝統を感じさせてくれる。
この公園に毎日やってくる、ホームレス、外国人労働者、高校生、大学生、チーマー、やくざ、酔っぱらい、他に行き場所のない人たちの群れに囲まれ、金曜のゲネプロ時には、ステージで宴会をしていた酔っぱらいに何度も「オメーラ、ウルセー」と怒鳴り込まれたり、終わり際にコンパ帰りで盛り上がりたい大学生30人以上に囲まれたりと、果たしてこんなところで公演が打てるのかと危ぶまれた池袋公演であったが、四日間無事に終了した。ゲネプロの日には中野と二人で電車で帰りながら、「もうこんなところで芝居はやらない方がいいよ」と言ったものだが、終わってみるとなかなか感慨深い。最初はここの住民の異様さに完全に引いていたメンバーたちもみんな達成感と、この場所や人々への愛着のようなものが出て来たようなのが面白い。何よりもエンディングでは他の場所では絶対に味わえない感動を体験することができた。無事に終われた達成感も大きい。
初日は金曜日。この日は普通のウィークエンドで酔っぱらいが多く、ピリピリした雰囲気の中、役者たちもやや外の群衆に押された感じで固くなっていた。2日目は台風の影響で一日中大雨。トイレで喧嘩があり、警官が出動する騒ぎはあったものの芝居には集中することができたが、雨の音に対抗して喉を痛める者が続出。それでもエンディングの時には小降りになってくれて助かった。3日目は台風直撃の予報の中、南に逸れてくれたおかげでこれまた無事に。唐さんや、唐組の鳥山君が心配して駆けつけてくれたが、やや拍子抜けの感じだった。とは言え、安心していたら夜になると意外に風が強く、台風の雰囲気は充分以上味わわせてもらえた。4日目。当日客がどんどん増えてやはり大入り満員。幸せな楽日を迎えられた。これで終わってしまうのが名残惜しいくらいであった。この間、ぼくはずっと公園に居たり、お世話になった望月六郎監督がやっているDogaDogaプラスの「贋作・春琴抄」や南河内万歳一座の「滅裂博士」などに顔を出したりしていてなかなか忙しかった。
当日に来てくれる観客も多く、結局初日以外はすべて立ち見の出る大入り満員。京都や新潟、水戸からもいろんな人が来てくれたし、この作品に強い思い入れをもつ旧状況劇場の面々、とりわけ大久保鷹さんは三回も来てくれたし、堀切直人さん、扇田昭彦さん、高橋豊さんを初め唐さんにゆかりのある方々にも喜んでいただけたようで良かった。やはり、これは圧倒的に面白い作品なのである。
唐十郎作品にしてはめずらしい硬質な思想劇、というか異化効果を組み込んだメタシアター的構成に戸惑われる方も多かったかもしれないが、(アンチ)ヒロインが軽薄で移り気な女で感情移入しにくい(できない)のも、畳屋の子供じみた妄想が常に裏切られるのも、母よりも昔の時代から生きていた紙芝居屋が「父」の名の下に「夢からさめろ!」と叫ぶのも、大衆の夢魔にうなされながらも、大衆の深層に想像的エネルギーの鉱脈を探し出そうとする彷徨からもたらされる必然なのである。一幕終わりに便所に現れる満州帰りの叔父の亡霊の象徴する歴史の悪夢と、二幕終わりの超速度でめまぐるしく展開する地獄巡りの5分間の中にすべてが凝縮されている。二幕の「鉄仮面裁判」から後の椎野裕美子はほぼ完璧にそれを演じきっている。今回の唐ゼミ☆の「鐵假面」は単なる心理劇やメロドラマには還元されえない非構造的な強度の演劇として成立していると思う。最後の五分間でスイ子も畳屋も、それまでの人物造形とは全く異なる別の生き物に生成=変化していかなくてはならないのだ。中野演出ではそれは花道と舞台の階段を結びつける垂直軸上の「道行き」、あるいは「オルフェウス神話」として見事に造形化されている。それは『吸血姫』のエンディングにもよく似ている。おそらく、今週末の関内公演で、エンディングはさらに形を変えてこれまでとは全く違ったものになっていくだろう。さらに、観客の一人一人が鐵假面という登場人物にほかならないということがもう少しくっきりと伝えられれば、ほぼ完成形に近づくと言っていいのではないだろうか?
そういうわけで、残り2日の関内公演に是非それを確かめにきて欲しい。一度見ただけでは分からないことも多い筈です。

 

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