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[ 166] 成長を止めない精神:40年来の友人によるアーサー・C・クラークへの弔辞 | WIRED VISION
[引用サイト]  http://wiredvision.jp/news/200803/2008032120.html

自分用の衛星放送受信用パラボラアンテナの前に立つSF小説の大家、アーサー・C・クラーク卿。これはアジアでは非常に早い時期に設置されたパラボラアンテナの1つで、スリランカにある同氏の自宅のテラスにある。
それは夕方近くのことだった。私たちは、スリランカのコロンボにあるクラーク氏のお気に入りの場所の1つ、ゴールフェイス・ホテルの中庭に座っていた。
クラーク氏はお茶をすすりながら、インド洋の広がる西方を眺めていた。2004年12月のスマトラ島沖地震では、このインド洋で大規模な津波が発生し、その波ははるかソマリアにまで達したのだった。
「映画版『2001年宇宙の旅』でスタンリー(・キューブリック監督)と一緒に仕事をしたことについては何も憶えていない」とクラーク氏は語った。
「チェルシー・ホテルで過ごした数ヵ月のことも覚えていない。最後にスキューバ・ダイビングをしたのも、自分の母親がどんな顔をしていたのかも記憶にない。私がはっきりと憶えているのは、生涯の恋人との初めてのキスと、別れる前に交わした最後の言葉だ」
クラーク氏は、その2ヵ月前に私と再会したとき、私のことも憶えていなかった。同氏と私は35年間にわたって友人関係にあったのだが、私がクラーク氏の書斎に入り、彼の司令部の役割を果たしてきた机に近づいたときも、クラーク氏は困惑した表情で眺めていた。
私が無言で首を横に振ると、クラーク氏は心から憤慨したような表情をした。「そういうことなら、こちらに来なさい。早く……」。そう言うと、イライラしていた顔がたちまち喜びに輝いた。クラーク氏は「これを聞きなさい」と言い、マウスをクリックすると、スピーカーからシーッという音が漏れてきた。「これだよ! 私が30年前に書いたものと同じだ……」
クラーク氏のもとには、米航空宇宙局(NASA)のある科学者から届けられた、土星最大の惑星、タイタンの地表に吹いた強風を録音したものが届いていた。これは小型探査機『ホイヘンス』から送られてきたばかりのものだった。
この科学者は、子供のときにクラーク氏の小説『地球帝国』を読んで、タイタンに吹く風に関する記述があったことを憶えていたのだ。私はこうした録音物が存在していたことさえ知らなかった。これもクラーク氏にとっては、「人生は芸術を模倣する」ことを示す、新たな例の1つにすぎない。
スリランカのコロンボにある自宅『レスリーズ・ハウス』の外でチョッパータイプの自転車に乗るクラーク氏。
その後は、散々苦労しながら、クラーク氏が当時までに書いていたSFを片っ端から読み始めた。すっかりクラーク氏の著作の大ファンになったと思った私は、クラーク氏にファンレターを送った。
当時、ニューヨークで小説『宇宙のランデヴー』原稿の仕上げに取り掛かっていたクラーク氏は、返事のはがきをくれた。「私はチェルシー・ホテルにいる。電話をしてくれ!」と書いてあった。
こうした経緯で叶ったクラーク氏との出会いは、私の人生において、最も長く、大切な友情の1つとなった。最初の交流から40年にわたり、クラーク氏と私は緊密に連絡を取り続けた。私たちは共に、宇宙にも人間に似た知性体が存在するとの考えを、熱く語った。私はクラーク氏に、発売されたばかりの米国の切手を送ったり、自分の科学研究に関するニュースを伝えたりした。
フロリダ州ケープカナベラルでの宇宙ミッション打ち上げの中継で、共同司会を務めることも多かったクラーク氏は、打ち合わせの席上で絵はがきを回し、参加している人全員にサインを求めることもあった。私が受け取った絵はがきには、世界で初めて月面に降り立ったアポロ11号の船長、ニール・アームストロング氏や、ロケット工学の第一人者であるヴェルナー・フォン・ブラウン氏などからの挨拶の言葉が書かれていたものもあった(それからかなり経って、私はクラーク氏に、宇宙学好きが縁で知り合ったダライ・ラマを紹介することによって、その恩返しをすることができた)。
アーサー・C・クラーク卿は、現在、あるいはあらゆる時代においても、最も度量の広い作家であり科学者の1人だった。彼の小説やエッセイは、人類が今後も生き続けるだろう、との希望を抱かせるだけでなく、人類が課せられた枠を越える日が来るかもしれないとの思いを持たせるものだった。
クラーク氏は献身的なヒューマニストで、会って欲しいというファンからの要望を断ることはめったになかった。単に握手をしてみたいというだけの、気軽な訪問者さえも拒まなかった。
(だが、クラーク氏は無条件に寛大だったわけではない。私はかつて、自分の著書のなかでクラーク氏が通信衛星の特許取得を拒否したことに触れ、これは彼の徹底した無私無欲を示すものだと述べたことがあった。私はクラーク氏が喜ぶだろうと思い、その著書を彼に送った。
だが彼は「軌道で特許を取ることはできない」と冷ややかに返してきた。「私が通信衛星の特許を取得しなかった唯一の理由は、衛星の作り方を知らなかったからだ。私がもう少し利口だったら、兆単位の金が入っていただろう」とクラーク氏は語った)[クラーク氏は1945年に静止軌道に通信衛星を設置する構想を発表し、一般に通信衛星の発明者とされる]

 

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