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命題とは?/ プロミス

[ 472] 誤用日本語「至上命題」
[引用サイト]  http://www.ittsy.net/academy/instructor/atsushi2_3.htm

私はことさら、若者の言葉遣いが乱れている、とは思わない。確かに、目の前で使われると感覚的に不快になる場合はあるけれど、冷静に考えるなら、言葉は生成変化するものであり、かつて「しだらがない」だったものもいつしか「だらしがない」になったように、可能と受動を区別するために「ら抜き」言葉が生まれるというのは自然な変化のうちだと言うほかないのである。「告白する」が「コクる」になり、「気持ち悪い」が「キモい」になるのも、むしろ興味深い現象であり、それが言語感覚の柔軟な若者から生まれるというのも、自然なことだ。ただし、セックスを「エッチ」と言ったりするのは、この「エッチ」なる言葉がもともと「変態」の頭文字を取ったものであることを思うと、意味分かって言ってるのか、と言いたくはなる。さらにこの種の語彙レヴェルでの若者言葉を、四十過ぎの大人があたかも若者に媚びるかのように使うのは、断然不快である。
あるいは既に指摘されているように、この十年ほど、外来語を日本語に訳さなくなっているのは気になる。たとえば「電子メール」だが、私は「電便」と言う。簡単に訳せるのに訳さない。それどころか、わざわざ英語にしたりする。「キッズ」とか「コリアン」とか「マイノリティー」とか。こういう作業を行っているのは、むしろ大人である。そしてその大人の日本語力が、近年ひどく低下しているという印象を私は持っている。それも、教師、作家、新聞記者、編集者といった、言葉を仕事とする者の間でである。
「すべからく」の誤用については、呉智英がかねてから執拗なまでに指摘しているのだが、いっこうに直らないようである。たとえば東大文学部英文科助教授阿部公彦の『モダンの近似値』(松柏社)を読みはじめたら、「文学に関係する人間がすべからく大学で語学を教えているわけでももちろんない」とある。しかもこれは、「文学部」不要論をめぐる本書の序文なのだから、困ったものである。ただ私個人は、必ずしも「べし」や「べからず」で受けなくとも、勧告の意味で終わるならすべからくは誤用ではないと考えている。丸谷才一の『日本語のために』(新潮文庫)にも、「劇作家たちはすべからく、かういふ邪道、かういふ意義の乏しい作業に耽るのをやめて、たとへば福田恆存のやうに、あるいは三島由紀夫のやうに、きちんとした標準語で書いてもらいたい」(七二頁)とある。問題なのは呉の言うように、これを「すべて」の高級表現だと思い込んでいる向きなのである。たとえば福田和也は、『悪の恋愛術』(講談社現代新書)で「恋愛はすべからく片思いから始まる」などとやっている。
ほかにも誤用日本語はたくさんあるのだが、まず、特異な例である。一九八二年、NHKの大河ドラマで、堺屋太一原作の『峠の群像』が放映された。いわゆる「忠臣蔵」もので、大河ドラマとしては三作目に当たる。この中で、例の浅野内匠頭の刃傷に際して幕府が「喧嘩両成敗」の処置を取らず浅野にのみ切腹を申しつけたことについて「片落ちの裁定である」という表現が出てきた。しかし一般にはこうしたことは「片手落ち」と呼ばれているが、これはいわゆる「差別用語」で使えないというので、「片落ち」という言葉をNHKで「発明」したと思った人が多かったようだ。しかし、「片落ち」という言葉は江戸期からあって、講談社学術文庫版『江戸語の辞典』にも用例とともに載っているし、真山青果『元禄忠臣蔵』もこの言葉を使っている。インターネット上などには、すっかりこれをNHKの「造語」だと思い込んで、「わははは、そんな言葉があるか」などと書いている向きも、未だにある。無知とは恐ろしいものである。
しかし、ひどい蔓延の仕方を呈しているのが、「命題」という言葉だ。これは、論理学の用語で、「文」と同じ意味であり、何かを述定している一文のことであり、それに対して「この命題は真である/偽である」といった判定ができる。ところが,作家山田詠美の短編集『姫君』(文藝春秋)の最後に収められた「シャンプー」は、冒頭から「猫が飛び降りる時、安全に着地出来るのは、どのくらいの高さが限度なのだろう。/という命題は・・・」とある。これは「命題」ではなく「設問」か何かだ。一九七八年に「群像」新人賞を受賞した中島梓の『文学の構造』(講談社文庫)を見ると、「『文学とは何か』という命題」とある。これも命題ではない。やはり「設問」である。これで文藝雑誌の新人賞を取っていたのかと思うと、今日の惨状を予告しているような気がする。最近の例でも、斎藤美奈子の『文壇アイドル論』(岩波書店)には「知識人と大衆という古典的な命題」(二三五頁)などと書いてある。福田といい斎藤といい、これが当代の売れっ子文藝評論家の双璧なのだから、困ったものだ。しかし、最近多いのはこの用法ではなく、「−−を至上命題として努力した」のように、「達成すべき目標」のような意味での誤用である。恐らく「至上命令」のつもりで、「命題」のほうが高級なように思って間違えるのだろうが、中学校の数学でも命題という言葉は教わるはずなのに、こういう誤用をするというのは、基礎教育が定着していないさまを現している。なお永井荷風『墨東綺譚』「作後贅言」には「小説の命題などについても、わたくしは十余年前井上唖々子を失い、去年の夏神代帚葉翁の訃を聞いてから、爾来全く意見を問うべき人がなく」云々とあるが、荷風が漢語を間違えるはずもなく、これは「名を付けること」という意味である。
これは前から二度ほど雑誌で指摘したのだが、一向になくならない。「至上命題」となると、至るところで使われているが、新聞紙上でも盛んに使われている。その意味はたいてい「至上命令」である。ほんらい「命題」に「至上」がつくわけがない。数年前、新聞の見出しにこれを発見したので、とうとう新聞まで、と嘆息したのだが、調べてみたらそうではなかった。一九八五年から収録されている朝日新聞データベースを検索すると、七百余件の「至上命題」が見つかった。読売、毎日もほぼ同数で、ということはこれが日常茶飯に使われているということだ。さらに遡るため、七五年以降の雑誌記事索引の題名を検索したら、「社共の統一戦線は至上命題に非ず」(安東仁兵衛)などというのが七五年にあった。いったいいつごろから誤用されているのか調べるために、四七年以降の国会の議事録を検索したら、遡るに従って数は減っていくものの、一九四八年に既に使われていた。この様子では昭和戦前から大正期まで遡れそうだ。これだけ大量に使われているのなら、もしや既に市民権を得ているのでは、と思って念のため『広辞苑』『岩波国語辞典』『新明解国語辞典』『日本国語大辞典』で調べたが、「至上命令」はあっても「至上命題」はない。これだけ広範に使われていて辞書に載っていない言葉というのも、隠語以外では珍しいだろう。これを言語学者に言わせるなら、辞書が現実に適っていないのだということになるのだろうが、私は認めない。「命令」というと何やら上から指図されているようなのが嫌で忌避した結果か、あるいはやはり「命題」が高級表現だと思っての結果だろう。ただし、『新明解国語辞典』第五版で「命題」を見ると、(二)として、「課せられた(自らに課した)問題」とあって、「−−の解明に当たる」という用例があげられている。とはいえこの用例には、何かためらいの気配がある。一般に誤用されている用法とは違うのだ。
さらに最近気になるのが「功罪」という言葉だ。見て字の如く、これは功と罪、つまりそのことがもたらしたメリットとデメリット、という意味である。しかし、どうもこれを単なる「罪」の意味で使う人が出てきたのである。大越愛子他編『現代文化スタディーズ』(晃洋書房)で編者の大越が「ロマンティック・ラヴ・イデオロギーの功罪は」と書いているから、続けて読んでいくと、女性を結婚に縛りつけたこと云々、とあって、「罪」しか書いていないのである。大越はもともと日本仏教の研究をしていた人なのに、なぜこうなるのか。 テレビ番組での「読み間違い」も最近多い。民放ならいざ知らず、NHKも最近目立つ。たとえばドラマで、和泉式部の「思ひつゝ寝ればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを」という歌が二度読み上げられた時、「ねればや」と読まれたのである。ないし、司馬遼太郎原作の『菜の花の沖』が連続ドラマ化された時は、主人公の高田屋嘉兵衛がカムチャツカへ行った時、日本語を解するロシア人少年が登場する。原作では、嘉兵衛が少年に日本語を教えたことになっているのだが、最初からこの少年が流暢に日本語を話すおかしさは誰でも気づいただろうが、彼が「ボク」というのである。「ボク」などという一人称は、幕末勤皇の志士が使いはじめたもので、この当時あろうはずがない。時代考証家は何をしていたのか、それとも訂正を申し入れたが聞き入れられなかったのか。
その種の誤りでは、たとえば明治維新前に関する記述なら「大阪」ではなく「大坂」と書かねばならないのに、「大阪」と書く人が少なくない。ひどかったのは、三島由紀夫賞を受賞した樋口覚の『三絃の誘惑』(人文書院)で、本文で「大阪」と書くのみならず、江藤淳の文章の引用でも「大阪」になっているから、まさか江藤氏がと思って原文(『近代以前』文藝春秋)に当たったら、果して「大坂」で、他人の文章まで改竄しているのである(もっとも近世において「大阪」という表記がなかったわけではないらしい)。それ以外にもこの評論は誤日本語満載で、「断末魔の死」とか、「谷崎の第二夫人」とか(二番目の妻のことだろうが、「第二夫人」では妾のことだ)、よくこれで「文藝評論家」を名乗ってしかも三島賞を取ったりするものだと呆れた(選考会に江藤氏は欠席)。
それと、誤用ではないのだが、ブラニスラウ・マリノウスキーの古典的な『未開人の性生活』の邦訳の新版が一九九九年に新泉社から出たのだが、その中に「ビタノーバとかペトラルカの詩」とあって、ビタノーバとは誰だろうと思って少し考えたら、なんだ、「ヴィタ・ヌオーヴァ」、ダンテの『新生』ではないかと気づいて大笑いした。六八年に刊行されて以来、誰も指摘しなかったのだろうか。
また二○○一年八月二十九日の『朝日新聞』夕刊(東京版)に作家の原田康子が随筆を寄せていて、その中に「悪評さくさく」という言葉があった。これは、限りなく誤用に近く、「嘖々」なら「好評」である。「悪評」なら「紛々」である。なおこれは、以前私自身が誤用して百川敬仁先生に指摘されたものである。
「コンプレックス」という英語は、日本ではかなり奇怪な運命を辿っている。まず、ご承知の通り、「インフェリオリティー・コンプレックス」の略として使われたために「劣等感」という意味になってしまった。本来は「複合物」なのだが、何も複合していなくても「劣等感」の意味で「コンプレックス」と言う例は、枚挙に暇がない。その一方、「エディプス・コンプレックス」から派生したらしい「マザー・コンプレックス」の略としての「マザコン」も一時期盛んに使われた(上野千鶴子『マザコン少年の末路』、山下悦子『マザコン文学論』等)が、中には実際に「コンプレックス」である用例もあるけれど、むしろ単なる「アタッチメント」に過ぎないのではないかという例も多い。さらに「ロリータ・コンプレックス」という、ナボコフの小説から作られた、異常性愛としての幼女愛を意味する、トレーナーによる同名の著書(邦訳、太陽社)は、日本では「ロリコン」として、異常なのかそうでないのか分からないような、少女愛好を意味する語になってしまった。しかし、徳川時代以前の日本、ないし近代以前の社会では、初潮を迎えた女性はたいてい成人扱いされていたので、たとえば十五歳の「少女」を愛するのが異常と言えるかどうかは疑わしい。かくして「コンプレックス」は、一方では劣等感を、一方では愛着を意味する不思議な輸入語になったのである。遂には「ファザコン」はもとより、「シスコン」「ブラコン」まで登場した。田中貴子『日本ファザコン文学史』(紀伊国屋書店)は、コンプレックスでも何でもなく、単に父権の強さを論じたものであった。最近では「ショタコン」なる言葉もある。これは『鉄人28号』の主人公である正太郎少年から来た「正太郎コンプレックス」の略で、ロリコンとは逆に、十五歳以下くらいの少年を愛好する成人女性を指すらしい。
もう一つ。三年ほど前、清少納言と紫式部の祖父の代で和歌の骨格の借用があったとか(本歌取りではない)いう新聞記事が出た。またしても文学研究関係の夕刊ながらトップ記事だったのだが、それはさておき、それぞれの仕えた中宮の名「定子」「彰子」に「ていし」「しょうし」とルビが振ってあった。しかし、当時のこの種の女性名は基本的に訓読みのはずであり、丸谷才一などははっきり「あきこ」とルビを振っている。これについて、角田文衛『日本の女性名(上)』(教育社新書、品切れ)は言っている。
たとえば「成子」をセイシ(音読み)、「徳子」をトクコ(湯桶読み)などと読むのは、誤りもまたはなはだしい。江戸時代から明治時代の学者は、「成子」は、ナリコ、シゲコ、ナルコ、ヒラコ等々幾通りもの訓みがあり、個々の場合、明確に決定できないという理由から、×子型の女性名を音読する不都合な慣例を作った。そしてこの悪弊は、今日なお固執されている。貞子は、サダコ、タダコなどの訓みがあり、個々の場合、必ずしも真実の訓みを知りがたいが、テイシと音読されなかったことだけは確かである。
「徳子」をトクコと湯桶式に読むのは、明治時代後期からの誤謬である。江戸時代には、トクという女性名が多く、これは明治時代にもち越された。明治時代中期以降に子型の女性名が流行すると、トク、トミ、シヨウ、サダ、テイなどの名には接尾語として子字が付され、徳子(とくこ)、昌子(しょうこ)、貞子(ていこ)といった湯桶読みの名が数多くあらわれ、これがひろく普及したので、現代人はそれにほとんど違和感をおぼえなくなっている。しかしそれはあくまで明治時代中期以来の便化であって、高倉天皇の中宮・平徳子をトクコと読むなどは、狂気の沙汰に近いのである。
古代日本について論文を書く向きは、すべからく心してもらいたい。ところで「湯桶読み」と言えば、上を訓、下を音で読む読み方のことで、上が音、下が訓なら「重箱読み」と言うはずだが、古くはこの両者を「湯桶読み」と言ったらしい。角田が「湯桶読み」と書いているのは、この意味である。
ところで、二○○三年秋に、NHKで『ニコニコ日記』という連続ドラマが放送された。小沢真理のマンガが原作で、木村佳乃主演、大森美香脚本で、実に良かった。泣かせられた。で、原作も買ってきて読みはじめたら、げっ。冒頭、私生児である自分の子供を預かってくれという、有名女優からヒロインに宛てた手紙で「最近、タイトルロールでよく名前を見ます」とある。タイトルロール? ヒロインはテレビ関係の下っぱ仕事をしているから、クレジットタイトルのことだろう。タイトルロールというのは、たとえば『カルメン』でカルメンの役、というように、題名になっている役、という意味である。恐らく小沢は、タイトルがロールのように回ると思って、こう書いたのだろう・・・。さすがにドラマ版では、そんなことは書いてなかった。

 

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